1.30.2011

靖国神社

昨日、父親から手紙が届いた。
入院している母親の為に、
「祖父が眠る靖国神社の御札を送ってくれ」と書いてあった。
親父に○○してくれと言われたら、黙って従うのが親孝行というものだ。
電話では、言いにくかったのだろう。
もう何度も足を運んでいるくせに、
靖国神社と境内にある遊就館に行きたくてたまらないのを我慢して、
おふくろのめんどうを見ている親父の為に、一人でカメラを持って出かけた。

靖国の境内にある「遊就館」という博物館の
近代日本の戦争に関する展示は、ほんとうに素晴らしいと思う。
靖国神社というところは、縁がない方にとっては、
日本の政治家が参拝するとかしないとかで、マスコミに騒ぎ立てられて
あまりいいイメージが無いかもしれないが、
もし気が向いたならば是非一度足を運んで、
入場料800円を支払って、丸一日じっくり見るといいと思う。

零戦での特攻は有名だが、
「回天」という人間魚雷を初めてみた時は正直驚いた。
生きて戻る事は想定されていないので、溶接して発進したという。
つまりそれを溶接していた人間もいるわけである。。
海底2万マイルに登場しそうなダイビングスーツを着て
爆弾の付いた槍で敵艦をつつくなどどいう信じられない武器もあった。

中国や朝鮮半島を侵略したことは、もちろん事実ではあるだろうが、
世界的な帝国主義全盛にあって、開国したての小さな国土の日本が、
世界を相手に、武士道精神に則って、
「坂の上の雲」を目指していた歴史は知っておくべき事だと思う。

親父の好きそうな展示や境内をたくさん写真に収めた。
大きくプリントして御札と一緒に送ろうと思う。
写真と8mmに夢中だった親父は、
最新のデジタルカメラで撮影した写真を見て、
何を思うのか、楽しみである。



日が暮れて家に戻ると、マガジンハウス部隊の池田軍曹から
直筆の手紙を添えた白いチューリップの花束が届いていた。
2週間前に旅立ったハニーのためにと、妻と私に送ってくれたものだった。
手書きの文字が潤んで見えたのは、生まれて初めてかもしれない。
我が家のやるせない気持ちを、す〜〜っと支えてくれた。
ハニーの13年間をもっとこうしてやってればと後悔ばかりしてしまい、
立ち往生しているところに、 そっと肩を組んでいただいた感じである。
この御恩は、一生忘れない。


Hasselblad H3DⅡ-39  35mm f8 1/125s ISO50 5200℃
※えげつないほど克明に写ってしまうこのカメラシステム。
こういう、、アナログ写真の甘さなど微塵もない、
不思議で、上品なピクセルの集まりこそ、
デジタルならではの可能性だと思っている。
JPEGではあるが、クリックして大きなサイズで見て頂きたい。

1.28.2011

NISSAN GTR

2007年の暮れ、雑誌GQの取材で根本さんとドイツを訪れた。
発表されたばかりのGTRでカルロス・ゴーンさんが
伝説のテストコース・ニュルブルクリンクを
テストドライブするということで、表紙を含めた巻頭の特集である。

守秘義務の書類にサインをして臨んだニュルブルクリンクの
日産の工場は研究所のようだった。
マスクをされたダークシルバーの直線的なデザインのGTRは
黒光りしている戦闘機のように見えた。
ヘルメットをかぶった寡黙なテストドライバー達が、
入れ替わりに乗り込んでコースに向かって静かに発進していくのが
とても神聖な修行のようだった。
本気でいい車を作ろうとしている情熱がひしひしと伝わってきた。
開発責任者の水野さんのフランクなしゃべり方がとても印象的で、
もちろん使う単語や道具は違うだろうが、
大工の頭領や、ベテランの職人さんにも似た空気を感じた。

さすがにゴーンさんの運転でニュルのコースに入ることは出来なかったが、
楽しそうにハンドルを握って、
私がカメラをもってぐらついているのを笑いながら、
アクセルをかなり踏み込んでいた。
工場から空港に帰る時に、
さらりと自社開発のモンスターをテストするといって
自分でハンドルを握って去って行くあたりはさすが社長である。

世界最速の男、ボルトもGTRを買ったらしい。
2011年モデルには、エゴイストというサブネームが与えられ、
540馬力にパワーアップして、さらに扱いやすくなったとのこと。
街を走る車に、あまりじろじろする事は無いが、
GTRだけはなぜか、注視してしまう。。
そろそろ電気自動車にしようかなどど考えることもあるが、
もし宝くじに当たるようなことがあったら、
実は真剣に欲しいと思っている大人のおもちゃである。
カーボンカットも大事だが、夢ももっと大事なのである。

日産の社長に就任されてから、
時期を追うようにエルグランド、フェアレディZ とともに撮影させて頂いた。
そして渾身のモンスターGTRでも撮影させて頂くことが出来た。

是非一度、ヨーロッパの自宅に飾られているというZとの写真と、
日本の自宅に飾られているというこの写真を拝んでみたいと思っている。

 Canon Eos5D 70~200

1.27.2011

BMW K100RS

小倉高校の2年の夏休みに中型自動2輪の免許を取った。
進学校であまり校則が厳しいわけではなかったが、
夏休み明けに職員室に免許を取った数名の生徒が呼び出された。
法律にのっとって免許を取って何が悪いんですか?
と胸を張って答えた。
免許を取った門司自動車学校は、バイクの死亡率日本一だったが、
バイクくらい乗らないと青春は来ないのである。
当時の小倉はおかげさまで気合いの入った暴走族がけっこういて、
何度か御一緒したことがあるが、
マルチの集合管をエンジンの下でぶったぎった知り合いと走った時は、
さすがに言葉を失った。
一緒に走っていても、自分のバイクの音がまったく聞こえないのである。
ディスコのスピーカーを4つくらい背負ってると思えるような、
すさまじい爆音だった。

学習院大学に入ってから、すぐにローンで中古のCBX400Fを買った。
親の金で買った赤いフェアレディあたりで登校する連中の間を擦り抜けて
学校の裏にバイクを止めて、GOTOのロングブーツを履いたまま、
同じようなブーツを履いて練習している乗馬クラブのグランドの横を歩いて、
部室に行ってタバコを吸い、
夜にはバイト先の原宿のデイリープラネットに通っていた。

大学3、4年のころに付き合っていた女の子を迎えに、
女子校の正門をぶっちぎり、校舎の窓から顔をだす
大勢の女子高校生の黄色い声を聞きながらタバコを吸っていたのは
若干アホではあるが、そうとうかっこよかったなと、
いまだに思っている。。
「盗んだバイクで走り出す」とはそういうことだ。(意味不明その1)

その後、新車のTZR250に乗り換えて、Manbow'sのバイト時代に、
ほんとにちょくちょく仕事が終わって
朝の3時くらいから5、6人で富士山まで高速を走った。
トンネルで2速落として、レッドゾーンぎりぎりで駆け抜ける
忠男のチャンバーのサウンドに酔いしれ、
帰りにはバックミラーに映る朝焼けの富士山に
「あばよっ」とか言っていた。(意味不明その2)

大学を卒業して、しばらくして大きな事故にあった。
新橋の交差点右折のハイヤーに側面から突っ込まれて、
右足首を骨折して、交差点をまるまる飛んで向かいのガードレールに
頭から突っ込んで鼓膜を破ってしまった。
もしGOTOの丈夫なロングブーツとフルフェイスのメットが無かったら、
随分、違う人生になっていたかもしれない。
意識が戻って救急車で警察病院に運ばれたが、
足に石膏のギプスをはめられて、車いすの膝の上にメットをのせられて、
「はい、じゃ〜明日また来て下さい 」
てっきり入院だと思っていたが、警察病院は骨折くらいでは
入院にならないとのことだった。

時は経ち、カメラマンとして独立して
ふとバイクの事を思い出してしまった。
すかさず大型免許を取って、Vmax1200を買った。
たしかに面白いバイクだった。
ちょろちょろと走る大型スクーターなどは信号が変わって2秒で
バックミラーで小さくなっていた。
ただ、最も重視する高速巡航において、
あまりに殿様ポジションなため、風と戦うのにすごく疲れた。
風を切って走る年はもう過ぎたのかもしれないと思い立ち(意味不明その3)
いろいろ調べて、一昔前のツールドフランスで並走していた
ポリスバイクのK100RSの中古に目をつけた。
BMWのALPINAあたりが売ってた頃の200万円超えのバイクである。
普通にブレンボのブレーキにビルシュタインのショックである。
走りながらタバコも吸えそうなフルカウルに、
グリップヒーターなども付いている。
購入してから乗って帰る時は、さすがに国産バイクとのルックスの違いから、
かなり恥ずかしかったが、乗り心地には正直やられてしまった。
高校の時からこれに乗ってれば良かったと、本気で思った。
重さや大きさは国産とそんなに変わらないのに、
言葉にはしにくい乗りやすさがしみじみと感じられた。
白いシンプソンのメットにしたり、カーナビを無理矢理付けたりして、
いささかオッサン仕様だったが、新潟あたりまでさくっと走りたくなる。
佐渡島にも渡ったし、金沢〜新潟はあっという間である。
「神戸でちょっとお茶してくる 」なんてのも気合いで可能だと思う。
なんせ一番快適に静かに流せる速度が160くらいだったりするのである。
おまけに車体とメットが白いおかげなのか、
飛ばしていると追い越し車線が十戒の海のごとくぱっかり開くのである。
あまり大きな声では言えないが、タイトなレザージャケットを着て
びっくりするような速度で走り抜ける
50センチの髪がなびいているライダーを見て、
「今の男?女?」と言わせるのが
暇つぶしだったりするわけで。。。(意味不明その4)

時々、夜中に保土ヶ谷まで第3京浜を流して遊んでいたが、
ぎっくり腰をやってから、少しずつ家の飾りになってしまった。
3年ほど付き合ってから、あまり乗らずに朽ちていくのも可哀想なので
手放してしまった。

意味不明なバイク人生で惜しむべきことは、
自分のバイクの普通の写真がほとんど無いことである。

脳内HDでこうやってかっこよく再現するしか無いのである。

きっとまた、何かをきっかけにバイクに股がりたくなるのは間違いないが、
電気バイクにしろ、モンスターバイクにしろ、
いくつになっても牙は研いでいたいと思っている。(意味不明その5)

Fuji Fine Pix 50i

1.25.2011

2001年、皿の旅

いまから10年〜15年程前、
雑誌BRUTUSの根本さんと料理関連の取材で、
たびたび御一緒させて頂いていた。
「予約のとれないレストラン」特集や、
ジョエルロブション氏の追っかけなどで、
しこたま美味しいものに出会う機会を
与えてくれた根本さんには大変感謝している。

28歳までのお金があった頃も、行くのはしゃぶしゃぶか寿司屋。
スタジオに入ってからは、ろくなものを食べていなかったおかげで、
きちんと洋食のレストランで美味しいものを食べるという
文化が自分の中にほとんどなかった。
そんなラボエムのパスタで十分なカメラマンが、
いきなりローマ、ミラノ、パリを中心に、
蒼々たるレストランで食事をすることが出来た。
ミラノ在住でコーディネーターをなさっている岩倉さんのマジックで
小さな名店も数多く訪れることが出来た。
撮影が終わり、椅子に座ると真っ先に
冷えた白ワインを注いでくれるギャルソンや、
少しでもぬるくなったと見ると、シャンパンを床の絨毯に撒いて、
新しく注いでくれるムッシュもいた。
本場で美味しいものを頂くということと、その周辺の文化に触れたことで、
私の食に対する価値観が大きく変わったといっても過言ではないと思う。

ローマにあるQuinzi & Gabrieliのスカンピのパスタが、
どうしても忘れられなくて、他誌の取材の時も含めて4回訪れた。
残念ながらデニーロにもアルマーニにも会う事は出来なかったが、
「アジアのジャーナリストではお前が一番来てくれてるよ〜」
と店の親父はスプマンテをがんがん注いでくれた。

あれから約10年が経った。
街も味も変わるだろう。。
しょっぱい御時勢のおかげで、
なかなかパスタを食べにローマには行けないが、
そろそろ行かないと、味を忘れてしまいそうである。

写真は小山裕久さんとロブションさんのコラボレーションディナー。
無粋ではあるが、たしか8万円だったと記憶している。
PIAGETのお得意様は、御招待だった。
最低でも二人でお酒を飲む事を考えると。。。

自分へのご褒美で美味しいものを食べるというのは、
そういうことなのかもしれない。

  Hasselblad E100Vs +1

オーロラ

1999年の暮れ、犬達を自宅に残して、
年寄りの父と母にドッグシッターの注意書きを手渡して留守番を頼み、
アラスカにオーロラを見に行った。

往路はアンカレッジ経由でフェアバンクスまで飛行機で向かったのだが、
なんといっても一番大変だったのは、
意気込んで購入したノースフェイスの極地用のダウンパーカーを
着たまま移動してしまったことで、
どこに行っても寝袋を持ち歩くような状態だった。
当時はアメリカ入国も、指をセンサーに押し当てるような事は無かったが、
フェアバンクスの空港でカメラ機材を入念に
放射線検査をされたのを憶えている。

宿はインターネットで見つけたペンションに
10日間フルにお世話になった。
フェアバンクス近郊の住宅地にあり、
競うようにライトアップする家々のクリスマスの電飾は壮観だった。


夜になると、宿の主人の好意で近くのスキー場に行ったり、
長大なパイプラインの下からのぞいたり、
車で3時間程のチェナ温泉にも行った。
世界中からの観光客達が裸で温泉につかりながらオーロラを楽しんでいた。

11泊中10日間もオーロラショーを満喫する事が出来た。
マイナス20度の中で夜空を見上げていると、
どこからともなくひゅ〜っと風が吹くような感じがしたかと思うと、
天球にランダムに様々な色の光がうねり始める。
よく言われるカーテンのようなオーロラももちろん見れるのだが、
空一杯にうごめく光の印象の方が強く残っている。
カメラを携行しているせいで、
いちいちビニール袋にカメラを出し入れして
結露を気にするのも面倒なので毎晩朝方まで空を見つめ続けた。
カメラはEosとFujiの69GSWとマキナ670を用意していたが、
ブローニーのカメラは、昼間の時点ですでにフィルムが圧版に
凍り付いてしまい、巻き上げが出来なくなり
一枚しか撮る事が出来ない事が分かっていたので、
夜は三脚とEos1Nを2台だけだった。
最も寒さに強いとされる単3リチウム電池を使用したが、
モードラ用で8本なこともあり、バッテリーの心配もほとんど無かった。
まつげも凍り、マスクをはずしてタバコを吸う度に
鼻毛がぎしぎしと音を立てる状況だったが、
現地で手に入れたソレルブーツと極地用のダウンのおかげで
オーロラをフルタイムで満喫できた。
いつもお世話になっている太陽の光でもなく、星の光でもない。
生まれて初めて楽しむ光のショーは忘れられないものとなった。

お昼頃まで寝て、近くのスーパーに買い出しにいく時には、
いつもダイアモンドダストが舞っていた。
交差点の歩行者用のスイッチは凍り付いていて役に立たない。
オーロラを見て朝方、宿に戻る車の窓から見た、
広大な中古車ディーラーに整然と並ぶ凍り付いたダッジの4駆達が
街灯でシルバーに輝く様は、 信じられない程美しかった。


アラスカからの復路は、間違いなくアラスカ鉄道をおすすめする。
文字通りアラスカの大自然を12時間突き進む。
真っ白なデナリの雪原に佇む一匹狼も見ることが出来たし、
巨大な鉄橋の真ん中で、広大な景色を楽しむ為に
しばらく停車してくれるという粋なはからいもあった。
マッキンリーもはるか彼方にではあるが、
それゆえの神々しさとそのスケールを感じられる。
喫煙所は、、、さすがアメリカ、空の貨物車両まるごと一両である。

最後の大晦日のアンカレッジの深夜、
レストランはみんな休みにはいっていて、
食事がカフェの冷凍のピザだったが
オーロラを10日間味わった直後の年越しの花火は、
私の中では満点である。


11年周期で太陽の電磁波が活発になるようで、
昨年の2010年の暮れに、再びアラスカを訪れる計画をしていたが、
ハニーが歳をとり、白内障を患い、
足腰が弱くなっていたこともあって、断念した。

11年前に留守番をしてくれていた犬達は
年明けに、とうとう二匹ともいなくなってしまった。

犬達へのアラスカ土産のドリームキャッチャーは、
一体どんな夢を運んできてくれたのだろうか。。。

Canon Eos1N 17~35mm ネガ

1.23.2011

白鳥

大学時代、代々木上原で同い年の小野君と
2Kの部屋をシェアーして暮らし始めた。
バイト先で知り合ってから、
約10年の間、一緒にいたことになる。

なぜか二人とも写真が趣味で、
それぞれ、6帖の部屋を暗室にしてプリントしたり、
時間が合うと、飲みながら写真の話で盛り上がっていた。

彼の実家の近くの川には、
冬になると多くの白鳥が飛来するということで、
写真を撮る為だけに、カメラだけを持って、福島に向かった。
おそらく写真の為の人生初ロケであったように思う。

現場は大雪が降っていた。
時折、ヘリコプターがとびたつような
ものすごい音を立てて白鳥が水面を走り、飛び立っていく。
NIKON F2のモータードライブを思う存分実戦で使う事ができるのは、
ほんとに楽しかった。
フィルムはモノクロとはいえ、
デジタルのようにシャッターを押しっぱなしにするような
撮り方はしていなかった。。
というよりもそんな撮り方は知らなかったというべきかもしれない。

東京に戻り、流しでフィルム現像をして、
風呂場にフィルムをぶらさげた状態でルーペで覗いて
当たりをつけていたのも、懐かしい。

生まれて初めての雪の中で興奮しながらの白鳥撮影行は、
一枚一枚ピントを合わせるのが、いかに難しいかを教えてくれた。

今となっては、オートフォーカスで、
誰でも撮れるような写真になってしまった。
あまり人には見せた事がない写真だが、
生きた証として、貼ってしまう。
これでも、当時は奇跡のピントの4枚だったりしたのである。

あれから約25年が経ってしまった。
牙をむいた野生の白鳥のどアップを
次回は狙いたいとは思っているが、
未だに実現していない。







NIKON F2モータードライブ ネオパン

1.22.2011

Jane Birkin

昼間の早いうちに納品をすませて、
ぼーっとしてたら、気がつくと自宅だった。。
まだ陽がある時間だったが、
寂しくなった一匹との散歩を終わらせて、
ハニーの遺骨の前で一人でワインを抜いた。
夕方のニュース番組で、
ブランド品の中古を扱うお店が
銀座の真ん中に出店したということで、
エルメスのバックが映し出されていた。


2003年、BRUTUSの戦友の池田さんと一緒に
オーチャードホールの楽屋に特攻した。
作戦タイムはインタビューと撮影も含めて20分程だった。
時間のロスをさける為に、廊下でストロボを足に立てて、
池田さんとむき出しの機材を手分けで持って部屋に突撃した。

女優でもあり歌姫でもあるジェーンバーキンさんが、
具合が悪そうに椅子に座っていた。
「アラベスク」のコンサートを直前に控えてるにもかかわらず、
39度の熱が出てしまって、テンション0の状態だった。
意外な程、狭く質素な楽屋の様子を観察すると、
床には、荷物がはみ出て口が全開になった
くたくたのエルメスのバーキンが
無造作に放り投げられていた。

契約書など無い日本の雑誌の取材であれば、
このクラスのタレントさんがひとこと「ごめんなさい」
したらそれで終わりである。
一瞬、「ばらし」かなと思ったが、
ジェーンさんは取材に応じてくれた。
 とっとと写真撮りましょうということになったのはいいが、
「もう、椅子に座ってるのもしんどいのよ。。」

実はこういう状況は不幸中の幸いだったりする。
下手をすると営業スマイルを撮らされてしまい、
あまり攻めることもできないまま終わったりする可能性もある
雑誌の取材という状況において、
物理的にほかのカメラマンに見せない状況でいてくれるのは、
実はちょっと嬉しかったりするカメラマンの嫌なところである。

「メッシーボック〜
どうぞ、ここの床に座って壁にもたれて楽にして下さいシルブプレ」
限られた時間と空間では、
実はこのほうが格段にいい写真が狙えたりするのである。
しかもかわいいスニーカーもしっかり写真に納めることができる。
2灯用意していたストロボの1灯のみを適当に壁にバウンスさせて
ラフに露出をとって、気が変わる前に、すぐに撮り始めた。
すぐ傍に転がっているバックを脇に置くべきか?
「私のバーキンにサインもらってきてよ」
という妻の冗談に付き合わなくて良かったなどど
つまらないことを考えながらフィルム二本を撮った。

自前のラフなスニーカーを少し恥ずかしがりながら、
お世辞にも綺麗とは言えないカーペットに座った撮影を
楽しんでくれたようだった。

美しくて、きちんと自分の世界を持っていて、
しかもちゃんと大人で、、、フランス人女性はほんとに可愛い。
とあるフランス人映画監督と言葉を交わした際に、
「世界で一番可愛いのは、フランス人の女の子だ。
でも、世界で一番スケアリーなのもフランス人の女の子だ」
と話していた。
ま、どこの国の女性も
敵にしてはいけない生き物だと思う。


このご時世で、中古ブランド品業界は絶好調らしい。
高級ブランドの出稿が減ったことも
出版不況の原因の一つだったりもして、、
日本の若い女性達が100万円もするようなバックを
こぞって持ち歩いていたからこそ、お金が回っていたわけで、、
なんとも、、、なんとも不思議な世の中である。。。

Hasselblad 80mm Kodak160ネガ ポートラペーパー

1.19.2011

目隠し撮影

スタジオマン時代、たしか1992年頃だったと記憶している。
ある大規模な写真のワークショップ に参加した。

その中で、ステージ上にてある趣向で
撮影をするということで、有志を募った。
当然、参加である。
たしか7、8人だったと思うが、
自前のカメラを持ってステージに並べられた。
そこに筋張った体をくねらせながら、時折異様な力みをしながら、
顔と股間に黒い布をまとっただけの裸の男性が現れた。
司会者の紹介によると、その方は土方巽さんのお弟子さんだった。
ウイリアムクラインの写真集「TOKYO」の中に登場するあの方である。
土方さんとうりふたつの舞踏家(顔が見えてないから似ているのである)を
撮れることになったようだった。。
大勢が見守るステージ上ということもあり少し興奮した。

しかし。。。
残念なことに名前を憶える前に目隠しをされてしまった。
暗黒舞踊家を目の前が真っ黒なカメラマンが撮るという
なんともえげつない見せ物だった。。
しかも私が手にしてるのは2眼レフ・ローライ2.8GX、
当時の愛機ではあったが、正直失敗したと思った。
撮影時間はたしか10分だったと記憶しているが、
となりの参加者のモータードライブの音にはむかついた。
念のためにブローニーフィルムはポケットに入れてあったが
さすがにローライは目をつぶってフィルムチェンジはやったことは無かった。
あっけなく撮影開始が告げられた。
瞬間的にフィルム2本、24枚撮ろうと思った。
かすかな音と気配をたよりにおそるおそる動きだした。
ほかのカメラマンと何度か接触するうちに、
不思議なことに裸体をはげしく動かす舞踏家の
うめきと気迫が感じられるようになった。
そして完全に被写体を目の前に捉えたと
感じられた瞬間に数枚シャッターを押す。
しかし舞踏家は、動きまわっている
そんな目隠し状態でも、
ローライの絞りとシャッタースピードをある程度合わせて
網膜に残っている焦点距離のダイヤルの残像と
約1メートルの最短でストップするピントダイヤルの位置から
ピントを探りながらも、
わりといけるかも、、さすが俺!などと思いながら、
「こんな見せ物とも知らず、馬鹿なカメラ持ってきちゃったね〜 」
な多くの視線を感じつつ、1本目のフィルムが終わった。

まわりでシャキーンシャキーンとシャッターを押す音が響く中、
とにかく正確にフィルムチェンジする為に、
その場に足を伸ばして尻もちをついた。
きっちり入れなければ、せっかくの貴重な撮影が半分になってしまう。
しかも気配に慣れてくることを考えれば、
2本目のほうがあたりが多い可能性も高い。
ローライ目隠しフィルムチェンジショーである。
今時ならば、だれかがYoutubeにアップしてくれて、
無様な姿を全世界にさらしてしまうところだが、
この頃は、まだそんな無粋なものはなかった。

状況が悪い時程、写真の神様は微笑んでくれるというのは、
カメラマンの良く口にする言葉だが、
状況が悪い時は、より一層注意深く被写体にアプローチするのは真理である。
無事24枚を撮り終えて、私は床に座り時間が来るのをまった。

その上がりの中から、私のデビュー時のブックに4枚入っていたが、
だれも目隠しして撮ったなどとは思わなかったはずである。

自分でも、驚いたのは、、、、
目を開けている状態と比べて、目隠しで撮っている写真が
とても似ていると感じたことだった。
もちろん使用するカメラの違いはあるにせよ、
案外、写真などというものは、
目に見えてるものを狙っているようで、実は、、
体や感覚の癖でシャッターを押しているのかもしれないと感じた。


実は、このワークショップの後半にも、あること、があった。
前もって提出してあった参加者の作品の中からセレクトされたものを、
ステージに投影してディスカッションするというもので、、
スタイルのいい女性の体を両サイドからの光のみで、
体のエッジだけが浮かび上がっている
黒バックのモノクロのヌードが映し出された。
私がナイスバディな知り合いの女性に頼みこんで撮らせて頂いた習作である。
すると某有名写真評論家と某有名美術評論家の先生方が、
なんかいろいろおっしゃって頂いたのだが、
記憶している限りでは、、
「とてもきれいなんだが、写真的にはあまり面白くない」
というような事だった。

司会者が私のところにマイクを持ってきた。
「とても参考になりました、ありがとうございます」
とか言ってほしかったんだ、とは思う。
しかし私は、渡されたマイクを持って、
壇上の先生方に、食い付いてしまった。
何を大騒ぎしたのか、あまり憶えていないのだが、
司会の方にマイクを取り上げられたのは間違いなかった。

全てのプログラムが終了して
喫煙所でタバコを吸っていたら、
壇上にいらした伊島薫さんがやってきて、
「君が発言しなかったら、つまんなかったよ〜。
言いたいこと言ってて、良かったよ!」
と声をかけて下さった。

伊島薫さんとは、あまり接点はないが、
心の戦友と勝手に思わせて頂いている。

Rolleiflex 2.8GX トライX +2

1.18.2011

愛しのハニー

2011年1月14日夕方6時、愛しのハニーが旅立った。
〜1997年クリスマス生まれ、ビションフリーゼ♀〜

事務所と自宅を兼用にしている私にとって、
この13年間で最も時間を共有した愛人である。


我が家の階段の横のコンクリートの壁には、
約1300枚のポラロイド600の写真を貼っている。
「ハニポラ」と名付けたその写真達は、
我が家の犬を中心に、遊びに来てくれた友人や、
気になったブツなどをスナップしたものである。

ポラロイド社が倒産して、デジカメを使うようになり、
最近は「ハニポラ」を追加する機会がめっきり減っていたが、
ハニーの葬儀の朝、新しく発売されたフィルムのことを思い出し、
ネットで調べて、渋谷ロフトに自転車で向かった。
あまり評判を聞かないので、どういったフィルムに仕上がっているか、
少し心配していたが、ほかに選択肢はなく、
カラー100を5本、モノクロ600を1本購入した。
自宅に戻ってテストをしたら、やはり100は露出補正をフルにかけて、
近接でストロボを使っても、ほとんど絵が出てこないようだったので、
そのまま店に戻り、事情を説明して
残りを全てモノクロの600に交換して頂いた。
ただ、このフィルムは非常に扱いが難しい。
微妙な温度によって、あがり(コントラスト、トーン)が
全く異なってしまうことと、
シャッター直後、排出されるフィルムは光にかなり感光してしまう。
直射日光は、一瞬でも受けるとかなり真っ白になってしまう。

胸ポケットにフラップの付いたM-65ジャケットを着て、
ハニーを抱きしめて、葬儀場に向かった。

陽が落ちて焼き場を出ると、欠けた月が透き通った紺碧の空に輝いていた。
いつも散歩で一緒に眺めていた月を、
手のひらの大きさになってしまったハニーを空にかざして、見せてあげた。

自宅に戻り線香をあげて、ポラロイドを壁に貼った。
その瞬間に、数百枚あったハニーの写真達の全てが
音を立てて遺影に変わっていった。
生前の写真の持つベクトルが、
被写体の死によって恐ろしい程に変化するのである。
「ポートレート」は、撮影された瞬間から
「遺影」になる宿命を背負っている。
写真の持つ最も不思議な力の一つである。
「ハニポラ」はある意味、完結した。。。


ハニーがどこに向かったのかは、知る由もないが、
美味しいものを好きなだけ食べて、
元気に走り回っている事を願うばかりである。


しばらくは、外で一杯やるのは、サングラスが必要になりそうである。

POLAROID SLR 680  PX600 Silver Shade

1.13.2011

写真はどうなる?

久しぶりなスタジオフォボスの後輩からメールが来た。
しこたま飲んだ翌日の撮影で、
スタジオマンとして入っているにもかかわらず、
気分が悪いのでトイレ行ってきますと言って
そのまま急性アルコール中毒で入院してしまった強者の昭紀からである。

「今後、写真はどうなっていくんでしょうね?」
今、私個人が思ってることを書いてみることにする。
極端な言い方をすれば「多分、何も変わらない」である。

おそらく現状の写真をとりまくビジネス環境が、
紙媒体の衰退と、デジタルへの移行と、
この不況がぴったし重なったために、
一見すると写真そのものがだめになるような
錯覚を感じるかもしれないが、
実は「写真」自体は何も変わっていない。
ネット上でも、よくあ〜だこ〜だ言ってるページがあるが
結局のところ、使うカメラや流通経路や、
撮影の仕方が少し変わっただけである、
ついでに盛り込まれた動画機能などで
盛り上がってる方も大勢いらっしゃるが、
「写真」はどっかりと腰を据えたまま、
写真の神様は間違いなく以前とかわらずどこかにいる、と思っている。

感材の製造打ち切りはショックだが、
それをぐだぐだ言っても仕方ない。
カメラというものが無ければ 写真は撮れない以上、
写真家にしろ商業フォトグラファーにしろ、
現状手に入るものを使うか自作する以外にないのである。
もちろん印画紙や紙媒体の衰退は、
写真の見せ方に影響はあることは間違いないが、
それが「写真」という文化をだめにすることにはならないと思っている。

実は私も始めはデジタルは毛嫌いしていたところがあった。
それでも普通に使ううちに便利なものは便利だし、
Sigmaのフォビオンセンサーもなかなかいいし、
デジタルバックのデータも馬鹿にできるものではないし、
写真を撮る道具として、確固たる選択肢の一つになってしまった。
それどころか、何度も仕事でレンタルで使っていた
デジタルバックのデータとにらめっこするうちに
バイテンの手持ちに匹敵する?!などと、
錯覚してハッセルのHを買ってしまうありさまである。
いままではフィルムの粒子に何とも言えない愛着を感じていたが、
デジタルの癖の無い上品なピクセルを見るうちに、
す〜〜っと違和感が無くなったのである。
モアレ、シャギー、トーンジャンプ、フリンジ、低感度などなど、
デジタルの弱点はあるが、
それはフィルム時代だっていろんな癖はあったわけで
うまく付き合っていけばいいだけの話である。

ただ一番大事な、それが好きか嫌いか?については。。
もう個人の「勝手にしやがれ」でしかない。

「写真」の力は今後も変わることはないと思う。
「写真の神様」が
降りてくるかどうか。。
降りるまで待つか。。
降りてこさせるか。。だと思っている。


ロスからヨセミテに向かう国道に
ぽつんと立ってたfor saleの看板に釣られて行ってみたら、、
長い時間をかけて出来たであろう轍に囲まれた古い車が、
信じられないような同じ色の空を背景にして輝いていた。

 Hasselblad 100mm Kodak160ネガ スープラペーパー

1.12.2011

井上陽水

恥ずかしながら、井上陽水さんとデビットボウイさんが
死ぬ程好きなのである。

2007年にBRUTUSの落語特集で
立川志の輔師匠と陽水さんの対談があるということで、
大戦友の池田さんが声をかけて下さった。
ウルトラサンクスなのである。
そりゃ、何百日も御一緒させて頂いていれば、
あんなことも、こんなことも知られてしまっているわけで。。

小学校の時から、歳の離れた兄の影響で兄弟部屋の音楽は
陽水さんがデフォルトだった。
当時の曲は全て歌詞を暗記していて、
小学校の授業中にクラスメートの順平と
競うようにノートに歌詞を書いていた。
コンサートを収録したラジオ番組をカセットテープに録音しては、
トークの一言一句まで耳を立てて聞いていた。
兄がコンサートに出かけるのを、
どれだけ悔しい思いをしながら見送ったか、
いまでも思い出す程である。

池田さんとページのコンテを確認しながら、
スタジオでライティングをして待っていたら、
陽水さんが現れた。
男性の撮影で緊張することはあまり無いが、
さすがに、、小学校時代からの憧れの方である。
緊張はもちろんするのだが、
自分の立ち位置を見失ってしまうほど、
何かが脳内で滲むのである。

死ぬ程ファンであることは撮影の後に告白することにして、
ひととおり写真を撮った。
そして、同じく陽水さんのビックファンである
志の輔師匠の為にという顔をして、
ちゃっかり自分も入って集合写真を頂いた。
掟破りその1である。

撮影が終わり、私服に戻られた陽水さんに告白をした。
「小倉出身なんです。小学校時代から、死ぬ程ファンです。
今日は、ほんとうにありがとうございます。
あの〜大変恐縮なんですが、、サインして頂けませんか?!」
中学校時代にゲットしたアルバムを持ち出した。
しかも「ミュージックプラザきたがた」のぼろぼろの袋入りである。
陽水さんは、大学浪人時代に小倉にいらしたこともあり、
「 きたがた」の袋に入ったアルバムなら
絶対サインしてくれるだろうという作戦だった。
掟破りその2である。

さすがスーパー編集池田さんである。
なんとそのまま一献という運びになり、
陽水さんと志の輔師匠と池田さんと編集長も合流して
霞町の和食屋さんに向かった。
座敷に座った陽水さんが眼鏡をはずした。
御来光である。。
どんなハリウッドスターがかっこよく眼鏡を外そうとも、
これにはかなわないのである。
眼鏡をしていない顔は昔のレコードジャケットで拝見しているせいもあり、
脳内タイムマシンがいったりきたりになって、夢のような時間だった。
私のことを「小倉、小倉 」と呼んで頂いたのは冥土の土産である。
「しょうちゅう……」という陽水さんのオーダーする声だけで、
どれだけ気持ち良かったか。。
お伝えできなくて残念である。

志の輔師匠がトイレで長い時間待たされて戻ってきた後に、
「小倉、、トイレ空いてるか見てきて。。」
たしか5秒で確認したと思う。。

「小倉、、タクシー。。」
履物が無かったが、ためらわず裸足で3階から地上に駆け下りて、
タクシーを止め、取って返して裸足のまま陽水さんのデイパックを持ってタクシーまで案内させて頂いた。

志の輔師匠と池田さんと3人で、河岸を変えて盛り上がってしまった。。
以前、別の雑誌で師匠の撮影にNHKに伺った際、
編集の不手際により、部屋が無い状況で廊下でストロボをセットして
撮らせて頂いたポートレートを師匠が気に入って頂いていたこともあり、「カメラマン、君でほんと良かったわ〜」と言って頂き、
陽水さんのファン自慢を肴に、肩を抱き合って、しこたまお酒を頂いた。
掟破りその3である。


既に昭和記念で二日連ちゃんで見た陽水さんのライブ「Powder」を、
オーチャードホールでもアゲインするかまだ迷っている。。

CANON Eos5D 28~70mm

1.11.2011

JIL SANDER

2001年、BRUTUSの編集の戸高さんから
ジルサンダーさんの大きな特集でルポのお仕事を頂いた。
ドイツのファッション界の巨人である。
フォーシーズンのラウンジで集合となったわけだが、
私がショルダーのカメラバックを持っているのを見て、
彼女の目つきが変わった。
「私は、写真を撮られる為に来たんじゃない。」
そしてBRUTUSの提案する東京日記の内容について。
きちんとミーティングをしたいということで、急遽全体会議となった。

そして顔を狙うのではなく、あくまでルポに徹するということで、
EosとRicohのGR1とWIDELUXを武器に、
たしか4日間程、御一緒させて頂いた。

聡明という言葉は彼女の為にあると思える程、
思慮深くて美しく、芯のある女性だった。
お茶を飲む時やツナのにぎりを口にする時は、
とてもフランクに笑ってリラックスするのだが、
何か気になるものを見つけると「フォーカスフォーカス」と
若いスタッフに聞こえるように何度も口にして、
集中することの大切さを教えてくれているようだった。

当時はまだデジカメなどは無くて、
彼女が、私がスナップしていたGR1に手を伸ばしてきたので、
フラッシュの強制オンオフのスイッチを教えてから手渡すと、
それからロケが終わるまでの数日間、彼女のものになってしまった。
ストロボの強制オンオフのスイッチが独立していて分かりやすく、
単焦点でコンパクトな点をとても気に入ったようだった。

きれいな黒のサイドゴアブーツをはいて、
早足で歩く姿はとてもかっこ良かったし、
雪の庭園でぶかぶかな黒ゴムの長靴をはいて、
先頭をきって散策する姿も素敵だった。


きちんと自分のやりたいことをする姿勢と、
それを主張することを間近で見せて頂いた。

後日の打ち上げの際には、
戸高さんと相談して決めた彼女へのプレゼントのGR1を
家電量販店で手に入れて伺った。
少し前にBRUTUSで撮影していた多重露出のファッションページと
今回のルポの写真を褒めていただき、
「フォーカス」という言葉とともにハグをしてくれた。

顔は撮るなと言われても、
カメラマンとしては顔がわかる見開きの扉はとーぜん狙うわけで、、
編集スタッフと自分の体も写り込んでるにもかかわらず、
めでたく紙面を飾ることが出来た、
私の中では究極の「一枚」である。

いよいよユニクロに、彼女の名前を冠した品物が出始めたようで、、
「フォーカス」して、何かを買わせていただくつもりである……

CANON Eos1N 17~35mm RHP

1.08.2011

写真の入り口〜STUDIO FOBOS

1991年、私は「父との旅」の段取りを整えて
出発までの日々をぷらぷらして過ごしていた。
六本木の青山ブックセンターで写真集を眺めていて、
ふと作者のプロフィールを見ると
歩いてすぐの距離に事務所があるようだった。
普段は割と用心深い性格なはずだが、
なぜかそのときだけは違っていた……
そのまま、その住所に向かいピンポンしてしまったのである。

同じ年くらいの男が出てきて「なんですか?」
「いや、あの、、アシスタントにしてください」
「じゃ〜明日履歴書を持ってきて」
翌日、履歴書と、自分でプリントした
当時付き合っていた女性の写真をいくつか持参した。
「おお〜小倉なんだ!俺も小倉!今、先生いるから、ちょっと待って」
部屋に案内されると、そこには白髪のとても体の大きな日本人離れした
ずばりかっこいい立木義浩さんが椅子に座っていた。
立木さんの写真における優しい視線と、
とても丁寧なモノクロが好きだった。
立木さんは、履歴書もあまり見なかったように記憶している。
ただ写真を丁寧に見て頂いたのがとても印象的だった。
「ちゃんとプリントしてるね……
今うちはいっぱいだから私の一番弟子の瀬古が中目黒でスタジオやってるから
まずは、そこに行きなさい」

たまたま同郷の人間がファーストアシスタントだったこと、
彼の計らいでその場で立木さんに会わせてもらって、
写真まで見て頂いたこと、
28という年齢だったこともあり、少し考えたが、
小倉生まれの玄海育ちとしては、
これを受け入れない不義理な生き方は考えられなかった。

かくしてスーツを着て中目黒に面接に伺い、
師匠となる瀬古正二さんと坂口さんに
「ここは、そんな格好しなくていいとこだよ」と大爆笑されながら、
スタジオフォボスに入ることとなった。

それまで、なにわナンバーの黒い戦艦のようなSL560に乗り、
大きな携帯電話を全日空ホテルのバーのピアノの上に置いて酒を飲み、
アルマーニのスーツを着てキャバクラのおねえちゃんと
トランプをしていた28の男が、
出社そうそう19歳の前田というガキに、
「おい、お前、、階段掃除 してこい」と言われた。
もちろん想定内のことであったが 、
「こいつは、ぶっとばす」と思いながら、
白ホリまみれの2年が始まった。

3ヶ月の研修期間を経て、
当時スタジオマンのチーフだった五十嵐さんの推薦などもあり、
年齢的なことや当時スタジオで一番写真を撮っていたこともあったりで、
すぐにチーフにして頂いた。
あまり大きな声では言えないが、
スタッフルームに酒屋からビールをケースで頼み、
暗幕を毛布にして、カポックを十字架に並べて
寝ながらみんなで日本酒を囲んだり、
近くの居酒屋で夢と写真の話を肴に飲んだくれていた。
「スタジオマンは世の中のくずだ 」といつも自戒しながら、
約1年半のスタジオマンを経験した。

バイテンを標準レンズ付きのニコンFのように
がしがし撮る横須賀 功光さんの
作品撮りにロケアシで呼ばれた際に 、
横須賀さんのアシスタントの方が、
「今、東京で一番仕事が出来るのは、篠山さんのとこのファーストか
フォボスの中山だって聞いたよ」
っていうのが、昔とった、、なんとか……である。

そして瀬古師匠にあと半年は専属アシスタントにするからと言われ、
個人カメラマンの動きをひととおり学ばせて頂いた。
「デビューするのにちょうどいい歳だ、早く辞めろ」
30歳で独立した。

残念なのは、二つ。
一つは、私の写真の入り口となった
立木義浩さんの事務所の玄関で私を迎えてくれた
同郷の永江和之さんが38歳で他界されたことだ。
スタジオマンになっても、いつも指名して呼んでくれて
写真撮影の準備のトップスピードを教えてくれたのはまぎれもなく彼だった。
結婚した時も、さらっと奥様と尋ねてきてうちにあったローライを、
良く知ってて使い慣れているくせに「これがいんだよね〜」と
カメラ小僧のように笑いながらフォルムを詰めて
シャッターを押していたのが、とても懐かしい……
彼の香典返しで頂いた目覚まし時計が、
早朝ロケのとき、いつも私を起こしてくれる。

もう一つは、フォボスでいつも歳の離れた兄貴のように
優しく見守ってくれた伊達な坂口さんが亡くなられたこと。
スタジオを辞める少し前に、わざわざスタジオに入っている私に電話をくれて
「フォトコンの締め切り今日だから、なんか出せよ」と言ってくれた。
そのコンテストでグランプリを頂けたのも、坂口さんのおかげだし、
初仕事ともいえるSunday Silenceの納品前の写真を見てもらった時も
「すばらしいよ。これだけ撮れれば、もう大丈夫だ」
と独立する私の背中を強く押してくれたのも、坂口さんだった。
NYで撮ってきた数百枚の写真をこっそり白ホリに並べていた時も、
す〜っと現れて楽しそうに見てくださった。
坂口さん、いつもありがとうございます。時々また見にきてください!


なぜか一度だけスタジオフォボスで慰安旅行があった。
あんなやつも、こんなやつもいる。。
ま、基本的に自分勝手な人間の集まりなので、
ろくな思い出はできないのは分かっているが、
全員いないのに、気にせず集合写真を
撮ってしまうのである。
写真を愛する人間の集まった1枚、、なんか、、いい……
(シャッターを押したのは真壁?)

Tri-X, FORTEZO 2号

1.07.2011

琴欧洲

2007年の年明け間もない頃に、
BRUTUSの池田さんから音楽特集で琴欧洲さんの撮影の仕事を頂いた。

当時、デジタルによる写真納品が浸透したころで、
どうにもみんな同じような普通のトーンを少し変えたくて、
比較的自由な写真で良さげなオーダーだったこともあり、
大戦友の編集の池田さんに、モノクロ8×10の白バック枠付きプリントで、
やりたい旨を相談したら、デザイン上のコンセンサスも取って頂けた。

Avedonである。
大学時代に、神保町の古本屋で1977年の
西武美術館でのPORTRAITの日本語版図録を見て以来、
彼の写真集は死ぬ程見てきた。。
お金がない頃は、本屋で目に焼き付けながら、
被写体との出会い頭に生まれる写真的な何かを常に探ろうとしていた。
Avedonの力強さとPennの芯のある視線を盗みたかった……

どうしてもバイテンが欲しくて、
独立後数年経ってようやく銀一でコンディションのいいものを見つけて
当時の銀座の銀一のとなりの第一勧業銀行で60万円を引き出して、
あまりに興奮していたため、キャッシュディスペンサーにお金を残したまま、
銀一の地下に降りて、お金を払おうとした時に、
体温が10度くらい下がった記憶はとても懐かしい。
あのころは、たしかまとめて60万が出てきた時代だった。
幸い、奇跡的にそのディスペンサーにはお金がそのままの状態だった。

フィルムからデジタルにまさに移行しようとしていた2004年、
Avedonは逝ってしまった。
ポートレートが被写体のイメージを瞬間凍結するように、
彼の過去の作品達は永久に私の中に凍結された……
Avedon以外にも多くの会ったこともない世界中の人達が、
実はちょっと心の師匠だったりするのは、写真の持つ不思議な力だと思う。

フィルムで仕事をする方は、だれでも同じだと思うが、、
どんなにメンテを施した、使い慣れたカメラであっても、
たとえポラを引いて撮影直前に確認しようとも、
フィルムが現像されて、手の中に収まるまでは
なにがしかの「祈り」を捧げる。
デジタルになり、祈る前に勝手にモニターに絵が出てくるシステムは
その「祈り」という行為が無い分、
なにか情念的なもののけが写らなくなったような気もする。
そのフィルムが20×25センチともなると、
ちゃ〜〜んと「祈り」も倍増してしまうのである。

相撲部屋の引きのないぎりぎりのスペースに
ペーパーを垂らし、ストロボをセッティングして、
フィルムは4隅がちゃんと入ってるのか?
ストロボ光が引き蓋の隅から潜り込まないか。。
デジタルでは忘れていた、祈りにも似た確認作業を
ひさしぶりに無意識に思い出しながら、10枚撮影した。

それ以来、バイテンのペリカンケースと
ヤフオクで落札した頑丈なバイテンホルダー専用の
金属ケースは出動していない。
いつの日か、エネルギー充填120パーセントで
波動砲発射な気分になるまで、待機しているのである。

Deardorff 8×10 Fujinon 360mm TXT4164 +1

1.05.2011

中山達也

新年、あけましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願い致します。

お正月に、自宅に大勢あつまりどんちゃん騒ぎになって、
これだけ人が居るならと、昨年末に購入したカメラでテスト。

橋本志穂さんを撮っていたら、私も撮ってくれるということで、
おそるおそるカメラを首にかけたら、
「モデルの見本見せて〜」
「………」
なかなか自分が撮られることもないので、
カメラ購入記念にシャッターを押して頂いた。

皆様の写真を小さなサイズとはいえアップしているので、
自分の写真もアップしないのはフェアーじゃないということで、
名前でポストするという暴挙にでてしまった。


ふざけたプライスのデジタルカメラである。
うかつにも、仕事で何度もレンタルするうちに、
データーのクオリティと、ある程度の信頼を感じて、、
欲しくなってしまった。
刀はそばに置いておきたくなるのが、
スチールカメラマンの悲しい性である。

16年前の独立時に、ハッセルを揃えた時の感覚がよみがえった。

全ての人に、よい年になりますように……

Hasselblad H3DⅡ-39 ISO50 80mm, PHOTEK softlighter

1.04.2011

999万円のワイン

昨夜はワインを飲み過ぎてしまった。。

ワインと言えば、、
2000年の暮れに、雑誌BRUTUSの仕事で
マガジンハウスの年上の編集者と御一緒させて頂いた。
おそらく、私のカメラマン人生の中で
最も多くの時間を共有させて頂いている池田さんである。
冷静に考えると何百泊もともに行動していることになる。

そこから始まる10年近くに及ぶ酒を巡る旅のスタートだったと思うと、
なんだかとても感慨深い。。

おそるおそる池田さんが取り出した999万円のワインを、
ボトルに自分が写り込まないように、
出来る限り近づいて自然光で撮影した。
130年の歳月を感じさせるように、
シャトーラフィットロートシルトのダブルマグナムは歪んでいた。

どんなに小さな取材であっても、
とても細やかな気配りと愛情を持って仕事をされる池田さんには
多くのことを学ばせて頂いた。
会社の人事で、一時前線を離れていたが、
現場参戦にむけて、なにか企てているらしい……

写真を撮ることで、世界との繋がりを実感できる私にとって、
百戦錬磨な戦友とのロケは、生きる喜びでもある。

戦地での一杯ほど、美味いものはないのである……

Hasselblad 903SWC EPN

1.03.2011

INORI 祈り by VOXRAY

2010年の神宮花火大会の際に、
黒い背景で光る物体が5DmkⅡの動画で
どのように写るかテストをしたかったので、
ビルの屋上で飲みながら、
カメラを手摺にダブルクランプで固定して、放置撮影したものを
iMovieで編集してみた。

このブログを始めるきっかけになったヴォーカルグループVOXRAY
「INORI」を許可を頂いて使わせて頂いた。
12歳で被爆した後、白血病で亡くなった少女の祈りを歌っている。

デジタルカメラの進歩は今後も、いろんな形で進むと思うが、、
世代間での写真に対する考え方の違いは今後どうなっていくのだろう……

悪友の息子に託したM6というフィルムカメラを
5年後10年後に、彼がどう扱うか、、いまから楽しみにしている……

Canon EOS5D MarkⅡ,SIGMA MIRROR600mm F8 1/30s ISO200~320, iMovie8.0.6

1.02.2011

iPhone4

2ヶ月程前に、それまで使っていたiPhone3の
サウンドのスイッチが壊れたので4型に換えていた。
ろくに内蔵カメラを試していなかったが、
元旦の浅草寺で少しテストをかねて撮ってみたら、
あまりに普通にちゃんと写るのですこし驚いた。
コンパクトデジタルはいろいろ使ってみて、
モノクロスナップには、
フォビオンセンサーのsigmaDP2だけあれば十分と思っていたが、
常に携行することと、近接撮影等のメリットを考えると、
シャッターの押しにくさはいただけないが、かなり可能性があると感じる。

動画も試してみたが、もっと写らなくていいと思えるほどである。
iPhone用の動画用グリップも発売されているようで、
今後、このカメラのコンパクトさを活かした
いろんな動画作品が撮られると思う。

そのうち携帯電話が十分カメラとして使えるようになるとは思っていたが、
もうとっくにそうなっていたようで・・・
写真クリックで素のフルサイズをどうぞ。。

iPhone4