写真をしまっているお菓子の空き缶を開けた。
自分が生まれた頃の写真からカメラがデジタルになる前までの、
人にはあまり見せたくないような写真達がぎゅうぎゅうに詰まっている。
ふと2012年に開催した個展の中学の同級生達の写真に目が止まった。
少しカールしてはいるものの、約35年前の手札サイズの写真を
こうして普通に手にする事が出来ていることがとても嬉しかった。
誰かがフィルムを買い、カメラに装填して撮影し、
お金をかけてプリントするという愛があったからこそ、
こうして時空を超えてこの物体は存在している。
カサブランカダンディーが私。 |
写真がデジタル化して、モニターで見たりネットで共有するのは便利になったが、
果たして、現在の子供達は数十年経ってこういう写真が手元に残っているだろうか。
もしかしたらはげはげで誰だったか思い出せないような小さなプリクラが
少し残っているだけかもしれない。
今日明日は便利な事この上ないデジタル写真も、
それを格納しているのは、ハードディスクというなんだかよくわからない箱であり、
10年20年という時間経過を考えると、その規格や信号を送るケーブル
パソコンの規格等、将来性に関して怪しさ満点である。
世界的に富士フィルムのチェキというインスタントカメラの売れ行きがいいのは、
人々が写真のもつ不思議な力を本能的に知っているからなのかもしれない。
もちろん作品としての写真達は個展用に大きく紙に伸ばしたり、
印刷物にして手元には残り続けるだろうが、
ふとした時間に、畳の上にあぐらをかいて、窓から差し込む光のもとで
のんびり手にする『普通の』『小さな』ある意味『どうでもいい』写真達もとてもいい。
そもそも、いつでも遺影になる可能性と、
熟成させればさせるほど美味しくなる写真の魔力を考えれば、
大きさやパッケージはあまりたいしたことではない。