12.31.2016

大晦日

大学入学で上京して以来30数年間勤めた東京都民を辞めて、11月から山梨県小淵沢の住人となった。今年は両親が交互に入退院を繰り返したり、私生活でもいろいろとあった一年だった。10年ほど前に東京に家を建てた後も笑顔を失っていた時期があったことを思い出した。奇妙な喩えになるかもしれないが、幼い頃に大工の父親が『家を新築した家族には不幸があることが多い』と口にしたのをなぜか覚えていて、新居を構えるようないいこと。。プラスとなるようなことがあれば人生のバランスを保つためにそれを相殺するようなマイナスの出来事があるんだ。。つけを払わされるんだ。。と子供ながらに強烈に感じたせいか、いまだに人生は結果的にプラスマイナスゼロになると思っているふしがある。逆もしかり、嫌なことがあればきっといいことも後から追いかけてくる。今回、思い切って住民票を山梨に移し、一度は経験してみたかった富士山と南アルプスと満天の星空の窓の景色を手に入れたのも、山梨と長野を縦横無尽に走り回って撮影を満喫しているのも、本能的に今年の帳尻合わせをしようとしているのかもしれない。

大学生時代にバイトをしていたミュージックビデオをずっと流していた原宿のカフェバーで出会って以来、ずっと聴き続けていたデビッド・ボウイが逝ってしまったのはとても切ない出来事だった。目と耳に焼き付いたシリアスムーンライトツアーの彼と、今でもこの宇宙船地球号に一緒に乗っているんだという小さな喜びが奪われたような気がしてなんとも言えない喪失感を感じた。そして先日のクリスマスに安曇野まで足をのばした北アルプス撮影ドライブでしみじみと聞いた『ラスト・クリスマス』のジョージ・マイケルがその日に亡くなったというニュースを後日見た。九州から上京したはたちソコソコの田舎者が武道館のワムのチケットをなんとか入手してドキドキしながらモデルの女の子を誘う機会を与えてくれた。自分の周り全てがキラキラ輝いていると思わせてくれたホイットニーヒューストンも、音楽なんてよくわからなくてもノリノリにさせてくれたマイケル・ジャクソンもモリース・ホワイトももういない。めんどくさそうであまりわかろうとしなかったボブディランもようやく意味を感じることができるようにもなったが、同時代を生きた先輩たちが、どんどんいなくなる年齢になってしまったようだ。亡くなった人達がプラスマイナスどのくらいで死という大きな出来事を受けとめてしまったのかとても興味深い。

いろんなものが恐ろしいほどのスピードで変化している。ソフトもハードもどんどん新しいものが投入されて道具を使いこなすなどというレベルではなくなってしまったようだ。最近では若手の大工でさえ道具は安くて新しいもの(質のあまりよくない道具)を頻繁に買い替えて使うことが多いらしい。
いままでの常識じゃ考えられなかったようなイギリスのEU離脱問題やアメリカの予想外の新大統領など政治的な出来事も頻発している。

つい先日、長野の山の中をiPhoneのグーグルナビで示すままハンドルを切っていたら、軽トラでぎりぎり通れるような古いアスファルトの細い一車線で普通の乗用車であれば腹を擦ってしまうほど凍結の影響で真ん中が異様に盛り上がり、硬い枯れ枝が重なり地面が見えない程の急な山道を四駆に切り替えてバキバキとすごい音を立てながらなんとか走り抜けた。おそらく普通の乗用車であれば走行不能にはならなくてもかなりのダメージを受けるだろう。そろそろ実用になりそうな自動運転の普通車がもしプラグインでそんなグーグルナビを使ってわけのわからない山道に進入したらと思うとぞっとする。いかにして情報の少ない山間部で安全安心な自動運行ナビゲーションが実現するのか気になるところだ。
簡単・便利になるとか、生活が豊かになるというような免罪符を振りかざして、気がつけば小国をも飲み込んでしまうような一部の巨大企業や資本家たちがもはや意味がわからないレベルで世界中の利益を吸い上げ蓄えているいるように思える。教科書で習ったアダムスミスの見えざる手はもうほんとに見えなくなってしまいそうだ。

ただ、何もかもが変わっているにもかかわらず任意の多数決という実におぼろげなものに支えられた民主主義はなぜかあまり変わっているように思えない。上述のような政治的な出来事がほんとうに人民の判断だったんだろうか?もちろんいつの時代も全ての人を満足させる政治なんて存在しなかったのかもしれないが、そろそろ(もう少し手遅れかもしれないが)世界レベルでお金や利権や権力よりも大事なものを政(まつりごと)の軸にする新&真民主主義を生み出す叡智と、友人・パートナー・他者・他国・他宗教・他民族の生き方や文化を受け入れる思いやりという大きな愛が必要だ。

昨夜のかけがえのない悪友たちとの宴の余韻のせいか、とっちらかった文章にテレビのない部屋でひとり笑うゆく年くる年の静かな夜。
以前ほど無駄に長生きしたいとは思わなくなったが、窓から見える富士山くらいの願望は実現しながら、プラスとマイナスの波の上をぐるぐる転がって、時々笑っていこうと思う。

実に多様な線や質感をもつニワトリ
若冲が凄まじく精緻に描いたのも分かる気がする。
昔撮影した人生のほとんどを塀の中で過ごした人物も
感情を感じ取れない同じような瞳をしていたことを思い出す。
SIGMA DP3 Merrill

山に移り住んで、撮影任務以外ではいささか不義理な状況もありますが、

この場をお借りして今年もお世話になった皆様に厚く御礼を申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします!

皆様、どうぞよいお年をお迎えください!

7.14.2016

もののけの森

先週7月8日に北八ヶ岳の白駒の池の奥にあるもののけの森に写真を撮りに出かけた。
昨年は天気が良すぎで気分が乗らず、雪の残る時期には途中までしか車で入ることが出来ずに断念していた。なるべく天候が移り変わり光の状況が変わる平日を狙いたかったので梅雨のこの時期雨があがったので軽トラを走らせた。
道中に広がる八千穂高原の日本一といわれる白樺林を楽しんで、国道299号線の脇にあるガラガラの白駒の池有料駐車場で500円を支払い車を停めトイレで100円の使用料を投函して用をたしゴアテックスのパーカのポケットにコンビニで調達したおにぎり二つと携帯を入れて、パンツの尻ポケットには小型の伸縮式の簡単な3脚と財布。カメラはSIGMAのDP2MとDP3Mをクロスにたすき掛けにしてパンツの前ポケットには予備の電池を8個、足元は山梨ではデフォルトの履きなれた長靴、防水のキャップは長い髪が風で流されたり木にひっかっかって目に入るのを防ぐためだ。『手ぶら』というのは写真撮影の一つのテクニックだと思っている。
駐車場から約10分ほどの白駒の池までの道も見事な森に包まれている。今回はもののけの森が目当てなので湖畔に続く道の途中の看板で左に入って青苔荘方面に向かいキャンプ場で水とお茶を買い喫煙所で一服する。もちろんコンビニよりは割高な値段だがこういう場所でお金を払う瞬間にこそホットな情報が手に入ることが多い。奥から出てきたマダムは『今はもののけの森の手前のヤマネの森の苔も綺麗だよ』と教えてくれた。雲の動きが早く光の状況が刻一刻と移り変わりシャッターごとに樹々の緑や苔のライティングを変えてくれる。
昨年は三脚を持参しなかったので日が陰った状況では高感度に弱いSIGMAでは思うように狙えなかったが、今回は他の観光客がほとんどいないのをいいことに木製の小さな歩道に心細い三脚をたててのんびり撮影を進めた。
どうしても写真を撮っていると視覚ばかりに夢中になっていまうので、ひと段落したところで、深呼吸をしながら、どこかに潜んでいるかもしれないもののけ姫やナウシカの気配を探りながらおにぎりランチをする。別に何も食べなくても撮影は進められるが、時間が許せば、気分転換をして、日の角度が変わるのを待ち、視覚以外の何かを感じて後半戦に臨むのも悪くない。
カメラから手を離すと、急に静けさが感じられて少し怖くなる。
一人で原生林の中に佇むと、ひとり旅の寂しさや情けなさやスリリングな思いとは少し違った細胞の中身が何かを感じているような不思議な気分になる。

山に囲まれた地域は平地に比べて暗くなるのが早い。カメラのバッテリーがぎりぎりになったので、白樺林に寄り道撮影をすることを考えて早めに駐車場に戻った。

Softbankの携帯は圏外ぎみでトイレは有料だったりするが国道駐車場からのアクセスも20分ほど、山登りが苦手な方も味わえる日本3大原生林のひとつ。秋になれば国道沿いの真っ赤な山にそびえる白樺と、白駒の池に映る紅葉も貸しボートで楽しむこともできる。
お時間ある方は是非。
ナウシカかもののけ姫がいたらよろしくお伝えください。

写真はクリックでフルスクリーン推奨










































1.28.2016

ノー・ニュークス権

昨日、半日時間があったので、
原発メーカー訴訟の第三回口頭弁論を傍聴した。
昨日は、時間前の傍聴希望者には全員に傍聴券が配られたようだった。
東京地裁の一階の広い喫煙室で、いろんなタイプの人間が煙草を吸うのを観察して
時間ギリギリに101号法廷に入った。

写真はすべてiPhone6



正面には3回目の口頭弁論から変更になった新しい裁判官が座り、
左側には原告、右側にはGE、東芝、日立の代理人が座り、普段感じることのない冷たいエネルギーのかたまりが両サイドに陣取っているようだった。
基本的には事前に提出された書面をもとに原告被告両者が弁論パフォーマンスをするのが裁判というものだと思うが、昨日はいくつか違和感を感じる点があった。

一つは、なぜか突然変更になった新任の裁判官だ。少し笑いながらスクリーンを見る為に傍聴側に背中をむけることをエクスキューズしたり、腰の低い営業マンの様に細かいやりとりをしたことだった。私の勘違いかもしれないが、公正中立にきちんと天秤の役割を果たすことが職務であれば余計な笑いもエクスキューズも必要ないはずであり、私の50年くらいの人生経験において公の場で無駄に笑ったり余計なアクションをするのは、何かをごまかすためだったりすることが多いように思う。
裁判官は、この裁判の最後に、次回裁判の予定は決まっていて書類提出期限も何度も確認しているにも関わらず、わざわざ『今日は結審しません』と口にした。あたりまえだ、まだ何も終わっていない。なのに彼はまるで次回は結審するかもよ〜みたいな脅しとも思えるような含みを感じさせるためだけにこのようなことを言ったとしか思えなかった。

もう一つは、GE、東芝、日立の被告弁護団の発言だ。
様々な立場・心情を抱える訴訟原告団を膨大な時間をかけて手弁当で束ねている有志による原告弁護団が事前の綿密な書類準備と丁寧なパワーポイントを準備して臨んでいるにもかかわらず、被告側のGE代理人は資料も確証もないような思いつきの『意見』のようなものを口にしたことだった。そしておしまいには、早く裁判を終わらせたいと子供のようなことを話した。原告団がパワーポイントによる説明をしている途中に5分超過しているから早くしろなどとまったくおかしなことで口をはさみ、予定に無い発言をするといって立ったただのパフォーマンスだけのようなものだった。東芝の代理人にいたっては、一刻もはやく終わらせたいと一言言う為に一度立っただけだった。日立の代理人は一言も発言していない。
(担当の原発の壊れ具合によって各社の態度も違うようだ)
もちろん、原賠法という法律の現在における違憲性を問う裁判において、現状では原賠法に守られている被告側はあまり余計な話はしたくないだろうということはわかってるつもりだが、命を削ってノーギャラで裁判に臨んでいる原告弁護団と、はるかに潤沢な予算とギャラをもらって仕事をしている被告弁護団のコントラストがとても奇妙に感じられた。

この裁判では世界で初めて『ノー・ニュークス権』という言葉が使われた。おそらく世界中に絡み付いた原子力産業のしがらみは、今後もエネルギーだけにとどまらず軍事や核開発をも巻き込んでぐるぐるにかちかちになってしまうだろう。いや、もう既に人間の良心などではとても壊すことの出来ないおそろしく固いものになっているだろう。
司法世界の正義の浪人達が仕込んだ小さな小さな『No Nukes Rights』という概念がいつの日か、プライバシーやパブリシティー権などといった法律書には載っていない言葉と同様に普通に人々に口にされるようになったとき、ようやく人類が次の段階に進化できる時ではないだろうか。

原発メーカー訴訟原告団・弁護団公式サイト

原発産業の歴史を変える可能性のある小さな始まりの裁判直後の記者会見
驚く程マスコミ取材陣は少なかった。 

1.14.2016

Quintessence再起動


@八ヶ岳大橋

年があけてからもあまり気温が下がらないおかげで、
雪道ドライブも雪中行軍もなしに、冬場の澄んだ空気の中で
正月から時間があれば気になるポイントに気軽に写真を撮りに行っていた。

@美し森展望台

ようやく10日を過ぎたあたりから
明け方に窓ガラスの内側が少し凍るようになった。


昨年スタートしたQuintessence(カンテサンス)
に加える写真を積極的に狙うシーズンの到来である。

昨日の朝、ユニクロのももひきの上にクシタニのレザージーンズを履き、綿のソックスの上に厚手のウールのソックスを重ね、履き慣れた長靴で川に突入した。漁師が潮の流れと満ち引きを想定しながら獲物を探すように、頭に入っている水辺のポイントと太陽の角度をイメージしながら軽トラを走らせた。
いったいどんな行程でできあがるのか微速度撮影で見てみたくなるような不思議な造形や宝石のようにきらきらと朝陽に輝く氷達は、笑ってしまうほどユニークで美しい。まるで氷の女王の理不尽な魔法によって熱エネルギーを奪われ偏屈な固体に封じ込められた水の分子がまるで太陽のフラッシュとともに魔法が解かれ喜びながらを液体へと戻っていくようにも思える。あたり一面に存在する唯一無二のつららや氷を瞬間的に判断しながら次々と写真に収めていくのは言葉では表現出来ないほど不思議な高揚感がある。
電池蓋が破損してカードが剥き出しになっているSIGMAを水に濡れすぎないようにケアーしつつ、氷やこけで転ばないように気をつけながら、まるで子供のように凍り付いた川を歩き回った。
あたりには誰もいないのをいいことに、熊よけもかねて訃報を聞いたばかりのデビッドボウイをiPhoneマックスボリュームで聞きながらカメラのバッテリー5個が消耗するまでの約2時間、無心で氷にむかってシャッターを切った。サーという称号を受け取らずに最後のシングルPVに自らの死を盛り込んだ一ミュージシャンとしての生き様は、若い頃から聞いてきた音楽と青春の記憶とともに私の身体に深く刻まれた。

吐竜の滝の帰路、山全体を震えさせるような凄まじい空気を切り裂く音がした。おそらく猟銃の発砲された音だろう。その音の余韻がこだまのように数秒間感じられるほどだった。音楽を聞いていない静かな状態だったらとっさにしゃがみ込んでしまうほどだろう。山にいる生き物すべてがきっと驚いたはずだ。狙われた動物のこと、流れ弾の心配、動物を銃という飛び道具で殺す人間のこと、さまざまなことが頭をよぎった。駐車場に戻ると鳥獣捕獲活動実施中というステッカーを貼ったジムニーが止まっていた。

(写真はすべてクリックでフルスクリーン推奨 SIGMA DP2/DP3 Merrill)















2016年も地球はどんどんいろんなもので
汚染され続けていくんだろうと思うとやりきれない気持ちになる。
金儲けやマネーゲームのための産業を考え直すべきだと思う。
人間の良心では後戻り出来ないような利益優先の産業は
きっと取り返しのつかない付けを人類にもたらすことになるだろう。

少しくらい金があったところで、
他人より少し値段の高い服を着たり
ピカピカの高級車に乗って、
高い家賃やローンを払うだけのことで、
むしろ余計な欲が増えるだけである。
それぞれがつつましくシンプルに笑って生きる術を
身につけていかなければ、と思う。

簡単なことではないかもしれないが、
それぞれが望むつつましい幸せと、
隣人に対する思いやりと、
限られた地球の恵みを無駄遣いしない暮らしを心がければ
人類の歴史も捨てたもんじゃなくなるはずだ。


どうぞ、今年もよろしくお願い申し上げます。
中山達也