2.28.2012

与田弘志

もしかしたら、名前をご存知ない方もいらっしゃるかもしれない。
1992年~93年あたりにかけて、フォボスのスタジオマンとして
御指名を頂き、お手伝いをさせて頂いた大先輩のカメラマンである。

自家製の蛍光灯を敷き詰めたライトを持ち込んだり、
撮影の前にはかならずスタジオに来て、
ストロボのヘッドとキミーラのソフトボックスを使ってポジテストを行い、
本番には必ずそのテストをした機材しか使用しなかったり、
ハッセルのフィルムチェンジは、間に合わない時を除いては極力御自分で行ったり、、、
とにもかくにも、非常に繊細で丁寧な仕事ぶりはとても参考になった。
お若い頃は、撮影の時に機嫌を悪くして
ハッセルのカメラケースを海にほうりなげて帰ったなどという伝説もあったりする。
そんな煙草を吸いまくってた与田さんが、煙草をやめてからは、
スタジオで煙草のにおいがすると機嫌が悪くなるという情報もあって、
超禁煙体制で臨んでいたのが懐かしい。

そんな与田さんのスタジオでの最も忘れられない記憶がある。
93~94年のMIYAKE DESIGN STUDIOの秋冬のブツの90ページのカタログで、
与田さんの撮影が1週間以上続いたことがあった。
エアコンの噴出しが直接カメラ位置に流れてくることを嫌がることを知っているので、
事前に送風口にカポックで風邪までもバウンスするように準備して臨んだ。
前もってテストしていたライトを使ってセッティングをしながら、
与田さんはデコラで組んだ撮影台を目の前にして、ブツを触り始めた。
ここまでは、普通のブツ撮りとなんら変わりはないのだが・・・
ところが、お昼になってもほとんど撮影する気配はない。
そして、ちょっと散歩してくるといってふらっといなくなってしまった。
たしか1時間以上戻ってこなかったと思う。
そして驚くべきことに初日は、ブツと問答を繰り返しただけで、
一枚もシャッターは切らずに終了した。
もちろん時間制限のあるタレントさんの撮影ではないので、
自らのテンションも含めて最高の状態と判断するまで写真を撮らないのは、
写真屋として間違っているわけではないと思う。
もちろん景気のよさもあったが、
一日数十万円はかかってしまうスタジオ経費も気にしない顔をして、
さらっと散歩にでかけてしまう与田さんが少しかっこよかった。
「今日は撮れなかったね。。ま、こういうこともあるよ。明日からよろしく・・」
と言って夕方早くに帰っていった。
こうして始まった撮影は、ものによってはワンカット並べるのに半日かけたこともあった。

与田さんが半日かけて「置いた」タオル
マゼンダのフィルターの有り無しを必ず撮影していた。
iPhone4
贅沢に時間をかけて撮影しているにもかかわらず、
我々スタジオマン3人の弁当は手配されなかった。
スタジオチーフとして気合の3人体制で臨んだが、
途中一名(急性アルコール中毒:鈴木)が戦線離脱したり、
もう一名(柳沼)が、コンビ二弁当の繰り返しによるゲロで一時休戦と
かなり手強い状況にもなったが、無事にミッションをクリアしていった。
与田さんは、アシスタントがいなくなるとちゃんと把握していた。
「あれ?彼はどうした?」
「すみません、昨日の夜飲みすぎてゲロはいて病院に行きました」

食事から急いだ振りしてスタジオに戻り、カメラ周りにいると、
「君、たばこ吸ってきただろ?」
「は、はい。。。すいません。。い、いえ、すみません・・」

この撮影が終わってからは、
与田さんは御自分の写真集や、お手伝いさせていただいたカタログなどを
プレゼントしてくれるようになった。

与田さんの、繊細でポップなオンリーワンな世界が
どういう風に出来上がっているのか身近で感じることができた貴重な経験だった。
ほとんどモデルに声をかけない与田さんが、
時々、シャッターを押しながら「lovely!」と小さく囁くのも何度か聞くことができた。

与田さんのことは、こちらのページにわかりやすく書かれている


与田弘志写真展「Something In The Air」


ビートルズのメンバーを2時間待たせるのを経験してれば、
そりゃ、タオルや枕くらい半日待たせるのも当然である。


仕事とはまったく関係ない話だが、
今では無くなってしまった渋谷の高級焼肉「徳寿」で当時の彼女と食事をしていたら、
明らかにスーパーと冠が付くような真っ白な肌のモデルと思しき外人女性が
向かいの席に座って焼肉を食べていた。
ロシア人かな~と思っていたら、連れの男性がこちらに振り向いた。
与田さんだった・・・
作品にたびたび登場する奥様であることは刹那に理解した。
お邪魔するわけにもいかないので、軽くお辞儀をした。
渋谷の焼肉屋に不釣合いなビューティーが、目にちらちらと入ってくる。
あんなに美味しいモデルの女性を奥さんにしていることに、
写真を撮るものとして、まちがいなく嫉妬していた。
帰り際、もしかしたら与田さんが。。。?などと、金が無い時代だったこともあり、
フロントで少し期待しながら伝票を差し出すと、何事も無かったように請求金額を言われた。

夏の個展の案内状を与田さんにも送ろうと思っている。

与田さんのプランニングによるスタジオ
www.hiroshiyoda.com

2.18.2012

STREETS OF FIRE

1984年、年が明けて大学の2年に進級が決まり東京の暮らしにも慣れてきた頃、
何がきっかけだったかは記憶にないが
原宿のカフェバー”デイリープラネット”でバイトをするようになった。
2階の壁から竹下通りを見下ろすスーパーマンがいた店である。
中学の時に見た映画「スーパーマン」のおかげで
メニューに付けられた名前のほとんどは馴染みがあるものばかりだった。
大学進学を推薦で決めてから、繁盛している小倉の大箱の中華レストランでバイトをしていた経験もあって、正直、遊びながら給料を貰っているようだった。
酒の飲み方も知らない青2歳が生意気にシェーカーを振って、
原宿のマヌカンな御姉さん達にカクテルを振る舞い、
店内に設置された最新鋭の巨大スクリーンやモニターに、
好きなレーザーディスクやアメリカから送られてきたばかりのMTVのビデオ等を好き勝手にかけて楽しんでいた。

当時の最先端のカフェバーという、おのぼりさん的好奇心にも加えて、
ばりばりにチューンしたRX-7で女の尻を追っかけていた店長や、
バイクの楽しさを教えてくれたストイックな主任、
一つ年上の別の大学に通っていためちゃめちゃイケメンだった大島さん、冗談で一緒に暮らし初めて10年も部屋を共にした同い年の小野君と出合った、まさに真っ青な青春アルバイトだった。
当然ながら、女子のアルバイトは可愛い子でなければ入れない。
女子高のゆきちゃんと付き合うのには、そんなに時間はかからなかった。
夜中に店が終わり、彼女と二人で階段を下りて人通りの少なくなった静かな竹下通りに出て、ヘルメットを被りながら、クレープ屋の角を曲がって手袋を着ける。
裏手に止めてある人生初の大きな買い物だった中古のCBX400のエンジンに火を点けて、二人乗りで静かに走り出す度に、東京という街に出てきたことを実感していた。

1984年Olive44号より
特集「原宿で、さわやかな男の子みつけてドキッ=!」
で取材を受けたときのもの。
母親が「子供の頃に古着ばかり着せてごめんね。
今でも古着を着よるんかね」と
涙を流したのは、この記事のせいだった。
一緒に暮らすことになった小野君と、
死ぬほどはまった映画が「STREET OF FIRE」だった。
夜中に新宿の歌舞伎町に10数回はバイクで走って観に行った。
そして朝まで延々と見続け、帰りに歌舞伎町に立っている女性達を見て、新宿という街のなんたるかを理解した。
レーザーディスクが出てからは、毎日のように店でかけていた。
おそらくお店のお客さんは「またかよ・・」だったはずである。
バイト中に体を動かしながらこの映画を大音響と共に浴び続けたおかげで、いまでは、部屋をもくもくと掃除するときの条件反射起動DVDになってしまった。おそらく通算で200回は見ていると思う。
ストーリーはなんてことないが、冒頭と最後のライブシーンのエレン(ダイアンレイン)と、ちりばめられた楽しい音楽、ジョルジョ・アルマーニによるめりはりのあるスタイリング、バイク・車のエンジン音が渾然一体となって体に滲みこんでしまった。
と、言いながらも一人で夕食のとき、、見るべき録画テレビがないと、
犬に「またかよ・・」という目をされながらプレイステーション3の
コントローラーを握って、大音響で踊りながら食べている有様である。
エレンの歌が国内のドラマ用に日本語で歌われてしまって、この映画の持つ素晴らしい世界観が壊されたことは、最高に悔しかったが、間違いなくこの映画は自分にとって珠玉の青春の一本なのである。
現在、このDVDはなかなか手に入らないらしいので、是非、レンタル屋さんで途方にくれた時は、こいつを手にとってみて頂きたい。



2年間ほど、お世話になった「デイリープラネット」は、
コミックへの利権料のこともあり閉店した。
退職金として、デビッドボウイのレーザーディスクと
スーパーマンのマークの入った灰皿と皿を頂いた。

そして、間髪を入れずにゆきちゃんが「中山さん、ここでバイトして!!面白そう!」
と言いながら持ってきたアルバイトニュースのせいで、
超ミーハーアルバイト第2弾・表参道マンボウズで悪の道に進み、
前回のポストに続くのである・・・

2.15.2012

Whitney Houston

1987年、大学時代にどっぷりはまった水商売のアルバイト先に、
大学卒業後に就職が決まっていた。
表参道のシーフードレストラン・マンボウズを運営していた会社だった。
実は、特にやりたい仕事が見つからなかったこともあって、
同期の学生達はがいそがしく就職活動をしていたが、
自分は就職ということをまったく無視していた。
マンボウズの重役の方に口説かれて、4月の1日から社員として働くことになっていた。
3月31日の夜、その店で共にバイトをして、
仕事が終わってバイクでちょくちょく富士山や成田まで
走りにいっていた仲間達とたむろしていた。
「俺、ほんとにあそこに就職していいのかな~?」と漏らすと・・・
「やるって言ったんならしょうがねえだろ・・」
「ま、しばらくやって嫌だったらやめりゃいいじゃん」
「たっちゃん、結構向いてるとおもうよ~」と普通に戻ってきた。
ところが、、、一番仲の良かった柳沼が、
「やめちゃえば?あんたがそう思うんならやめちゃえばいいじゃん。」と言った。
その一言を煙草を吸いながら聞いていて、パチンと何かがはじけた。
自分なりにかなりきちんと仁義をきって入社の面接を受けて内定を貰っていたにも拘らず、
「ふ~~やっぱ、やめたっ」と呟いてしまった。
柳沼が「いいね~~ぐふふふふ(こいつはいつも下品に笑う)
じゃ、どっか逃げたほうがいいね、仙台にマハラジャ出来たらしいから
今からみんなで行かない?」
「行く?よし、行こう。ちょっと待てよ、会社に一筆書いてから行こう」
悪友柳沼のふざけた一言で、人生のスタートは仙台への逃避行になった。
「この話、無かったことにしてください」というような
意味不明なボールペンで書いた手紙を会社のポストに投函した。
都合が付くものが4,5人集まってくれて、
ワンボックスのレンタカーで一路、仙台を目指した。

車の中では、柳沼が持ってきたカセットテープがずっとリフレインしていた。
ずっと、ずっとホイットニーヒューストンだった。



名前だけパクったとしか思えない
仙台のディスコ・マハラジャの小さなミラーボールも、
暗闇に浮かび上がる伊達政宗の銅像も、
疾走する道路の流れる路面も、
帰りに立ち寄った温泉の残像も、
完全にホイットニーヒューストンの歌声とシンクロしていた。
何もかもが、輝いて見えた。
そんなきらきらした舞い上がるような視覚と、
彼女のはじける歌声と、時代の空気が見事に融合していた。
ほんとの成人式はバイトをしていたせいもあって、
まったく出席する気も無く経験することは無かったが、
この逃避行こそが、今思えば自分にとっての「成人式」だったような気がしている。

そんな一つしか歳が違わない彼女が逝ってしまった。
素晴らしい歌声と成功の引き換えに、
いろんな問題にも悩まされた人生だったようだが、
早すぎるだろう・・・
50歳になった彼女が歌う渋い力強いジャズも聴きたかった・・
彼女の分まで、彼女の歌を聞きながら長生きしてやろうと思う。

合掌


彼女の写真は、残念ながら、ない・・・
素晴らしい歌姫が、歌い続けてくれた
「成人式」の頃の自分。
10年間、部屋を共にした小野君が撮って、
プリントしてくれたもの。
銀塩プリントが変色するほど、
時が経ってしまった。
iPhone4

2.08.2012

Stan Smith

スタン・スミスとは言っても、テニスプレーヤーではなくて
スニーカーのスタン・スミスである。
棚に埃だらけになって積み上げられた、履き古しのスタン・スミスの山を眺めていたら、
最近Facebookで知り合いの女性が使っていた「断捨離」という言葉がリフレインしてきて、
よし、捨ててしまおう!とゴミ収集について調べたら靴はなんと可燃ゴミだった。
結局、ゴミだしまでに2日待ちとなり、こんなに履き古しの同じ靴が一同に会してるのも
なかなか無さそうなので、写真でも撮るか・・ということになった。
掃除を始めたのに、昔の雑誌に目が留まったりして、
「あれ、俺何してたんだっけ?」は人生の喜びでもあると思っている。

高校の同級生だった背が高くて痩せていたNが、
休みの度に、親に怒られそうな井手達でみんなで魚町商店街に集まっていた頃、
ミリタリーのトレンチコートに、細身の大きなスタン・スミスを履いていたのが妙にかっこよくて、
当時ナイキ派だった自分も、真似するのは癪ではあったが、スタン・スミスを履くようになった。
以来30年間、いつも手元には必ずこのスニーカーがあった。
一体、何足のスタン・スミスを履いてきたことだろう。

飲み終わった後に、紐を結ぶのが面倒なことと、
靴紐を結ぶのに、大事な腰を痛めたら話にならないので、
近頃はベルクロタイプを選んでいる。
どうも、アディダスのベルクロタイプが廃盤になったようで、
他のメーカーの白いベルクロスニーカーを物色している。

311の後、自宅にあふれるガラクタを見るたびに、
もっと身軽に生きなければと思うようになった。
頭の中では、いざという時のカメラや家財の持ち出す優先順位を無意識に考えている。

SumallyというSNSのページをクリックする時も、
買わずとも、所有せずとも、物欲を満たしたような気分を味わうという
本来の役割とは違う目線で並んでいる写真たちを眺めているのかもしれない。

人間にとって物欲とは、まさに業であるとともに、
文明の進化のエネルギーであることは間違いないが
人間が今後、もっとも気をつけなくてはいけないやっかいなものだと思う。

そんなことを言いながらも、
腰が曲がって、ろくに歩くこともできないようになったら、
若返った気分を味わいたくて、この白い新しい靴を探すんだろうなどと思いつつ、
せっかくセッティングしたストロボを使って、部屋中のガラクタなブツを撮りまくりながら
確定申告作りをさぼって、のんびりとした一日になった。

iPhone4 にてPCモニター撮りしたもの。
周辺のハレーションによる色かぶりも悪くない。

2.05.2012

Dudley Reed

約20年前、スタジオフォボスに外人フォトグラファーDudley Reed氏個人から、
ロケアシスタントの依頼があった。
英語が少し話せるほうがいいということだったようだが、
顔見たときにグッモーニンくらい言っておけば、
少しくらい言葉はわからなくても余裕だろう。。
などと意味不明に軽い気持ちで、一人で帝国ホテルの指定された部屋に向かった。

ドアをノックすると、すぐにドアが開いたのでグッモーニンと言ったら、
ごつい手が握手を求めてきた。
すぐさま部屋に招き入れられて、
緑色のぎらぎらしたボーリングの玉のような塗装のどこにでもあるような
大きなトランクケースを開けてみろと促された。
ここで舐められると、2日間のお供の内容がまったく変わってくるので、
慣れた手つきっぽくトランクのロックを外して、中身をケアしてる振りをしながら慎重に蓋を開けた。

そこには、使い込まれたハッセルのボディと既に旧型になっていたCレンズ達が、
痛んですでに粉っぽくなりかけたウレタンに埋まっていた。
ぼこぼこに使い込まれた旧型の903と、
乱暴にパッキン代わりのように詰め込まれたミニカムの小型ストロボ達を見て、
瞬時に「こいつ、、できるな・・・お仕事拝見させてもらうぜ・・」と思った。

なにやら話しかけられたので
「シュアー、ノープロブレム」と答えた。

そしてその日にポートレートを一枚撮影して、
翌日にロケで風景を一枚撮ることを説明された。
まずは飛行機のミニチュアが欲しいということで、
某航空会社名を指定されたので、ホテルのフロントに確認したら
すぐ近くの日比谷に窓口があることがわかった。
まずは、手ぶらで航空会社のサービスカウンターで
大小二つの飛行機のミニチュアを手にいれてから、
機材を持ってその航空会社に向かった。

塗装がはげかかってグラスファイバーが顔をだしているぼろぼろのトランクも、
ゴルゴ13ほどかっこよくはないが、もちろん彼なりの理由があってのことだと理解しつつ、
途中で不用意に蓋が開かないように慎重に運んだ。

そんなに大柄でもなく、お腹はジーンズの上にぽっこり乗っかっていた。
やむを得ず、すこしシックな黒のジャケットを着ていたが、なぜか裏地が真っ赤だった。
実は、彼の顔をあまり憶えてない。
案外、世界をまたにかけて仕事をするゴルゴは、
もっと普通の顔をしているのかもしれない。


航空会社に到着して、話をすると、スムーズに普通の事務的な部屋に案内された。
いくつかの部屋を見せてもらったが、
彼は始めに案内された殺風景な部屋で撮影を行うことにした。
そして受付の女性が立ち去る時に、「1時間後に」と告げた。

彼がどんな写真を撮るかもわからないまま、「さて、、御手並み拝見・・」
と思いつつフィルムマガジンをだしていたら、
別のバックから大きな暗幕をだして、窓に貼るように指示された。

外光をカットして、普通の事務テーブルを部屋のセンターに据えて、
ミニカムの小型ストロボを逆光ポジションと顔にサイドから狙う位置になるように
テーブルのへりに大きなクリップで固定した。
荷物になるスタンド類をなるべく使わず、現場にある家具・備品をうまくつかって
ライトをクリップで固定する手法も彼のこれまでの経験によるものだろう。
そして立ち位置で両手をテーブルについて立っている私を
ファインダー越しに覗きながら三脚でカメラを固定して、
カメラバックの脇から、ぼろぼろの小さなバンドアー付きのタングステンライトを取り出した。
そして30センチほどの飛行機のミニチュアをテーブルの上においた。
何を始めるかと思ったら、彼は楽しそうにモデルの前のテーブルに飛行機の影をつくり始めた。
なるほど、、航空会社の重役のポートレートに航空機の影を落とし込むというわけだった。

撮影時間になって登場したのは日本人の方だった。
なんだか、撮るほうも撮られるほうも慣れた感じで、飛行機の影だけを微調整しながら
拍子抜けするほどあっという間に撮影は終わった。
おそらくレギュラーでこの撮影は行われているのだろう。

ポートレートに光や武器(小道具)で演出を入れるという手法は、
一歩間違うと、すこし恥ずかしいものになってしまうが、
モデルに特になにも言わずに淡々と静かに撮影することで
緊張感を与えるのも、彼の経験によるものだろう。
モノクロのポラは、航空会社の記号を写し込んだ
静かで緊張感のあるいい写真だった。

翌日、再び帝国ホテルを訪ねた。
何を言い出すかと思ったら、お寺に行きたいという。
思い浮かんだのは、浅草寺と増上寺だったが、
スケール感と空の抜けが良さそうな増上寺に案内した。
境内に入って、いきなりそびえ立つ増上寺に彼は満足したようだった。
そして建物を眺めながらひととおり見て周って、
空を大きく狙えるポジションに三脚を据えた。
ファインダーを覗いてカメラを固定したら、飛行機のミニチュアをスタンドから外して
50ミリのレンズの前にかざして、私の顔を見た。
「おっけい・・」彼のやりたいことを理解した私は飛行機のミニチュアを受け取って、
レンズの前で飛行機の後部を手に持って空を飛ばせた。
「ひゅ~~~~」効果音つきで飛ばせてあげたので少しうけていたが、
側からみたら変な日本人と外人である。
前日に撮影したポートレートとリンクさせるモノクロ風景写真だと思うが、
ビジネスシートに何時間も座って、国をまたいで撮影の依頼を受けてやってきた外人の
ユニークな撮影方法は、今でも私の引き出しの中に残っている。
ピントのあっていない空飛ぶ飛行機のボディと
増上寺のシルエットのポラはなんだか可愛かった。

一見、2日間ともさらっとした簡単な撮影のようであったが、
人物写真を生業とするカメラマン人生に、大きな影響をもたらしたと思っている。

撮影が終わり、ホテルに戻って、ギャラを受け取った。
彼は手のひらサイズの25ページほどの丁寧に印刷された作品集に、
その場でサインをして手渡してくれた。ポストカードも添えてくれた。
2日間で見た彼の仕事が、世界中でたんたんと繰り広げられていることに
羨ましさと嫉妬の思いで、日本語がわからないのをいいことに
「このやろう。。。。」と口にしたような気がする。

今では、数多くの写真集の中でも最も汚れた「写真集」になった。
それだけ、人の写真を撮る時に、どこまで演出をするべきなのか?
何もしないべきなのか、無意識にページをめくってきたんだと思う。

何気なく渡してくれた営業用の小さな作品集は、
時空を超えて私の中に存在している。

Dudley Reed HP

御元気そうである。
いまだ、フィルムにこだわって、きっとあのボロボロのハッセル達で
静かなポートレートを撮っているのか・・・

生まれも育ちもまったく知らず、顔も覚えていないけれど、
なんだかとても不思議な縁を感じるのも、写真のおかげである。

珍しく、辞書を片手に翻訳を書き込んでいる。
iPhone4

2.02.2012

伊東四郎

今年の大河ドラマ「平清盛」を見ていたら、
伊東四郎さんが、主人公の生い立ちをめぐる非常に重要な役柄を怪演されていて、
物語に吸い込まれてしまった。
中井貴一さんの演技もとても素晴らしい。

ネットでニュースを見ていたら、兵庫県の知事がこのドラマを見て
「画面が汚い」「瀬戸内海が青くない」などと発言されたそうである。
なんだか、自分が撮影した写真に対して、
「粒子が汚い」とか、モノクロ写真なのに「海が黒い」とか言われたような
なんとも不思議な気持ちになった。

一昨年の「龍馬伝」と同じく「平清盛」は、
ヘアメイクの柘植さんを人物デザインに据えて、
映像や機材も従来の見易さよりもより臨場感を狙った冒険的なものになっている。
公家や皇族と差別化を図って、武士や町場のシーンでは、
コーンスターチを舞い上がらせて土煙や埃を演出している。
いささか過剰とも思えるようなコーンスターチのせいで
知事さんが「汚い」と言ったのだろうとすぐに理解した。

近年の大河ドラマを通じて、主人公の故郷などが町おこしの重要なきっかけにすることは、
当然のことだとは思うが、純粋に大河ドラマというものを
一つの独立した見世物として楽しむことこそ、正しい姿だと思う。

史実と異なるとか、海が青くないとかではなく、
日本の最高の機材を備える放送局であるNHKが、私達が支払っている受信料を使って、
日本の歴史を思い起こさせてくれる一年間のエンターテイメントを責任を持って作っているんだから
それを単純に楽しめばいいと思っている。
面白ければ毎週見ればいいし、つまらなければチャンネルを変えればいいだけの話である。
地域振興という旗のもとに、何かがコントロールされるとしたら、
今、我々が直面している原発利権のようなことにもなりかねない気がするのである。


伊東四郎さんが、「電線マン」でもなく「ニン」でもない
「院」の役に頭を丸めて臨んだエネルギー満点の姿を撮影したかった。

役者が撮影現場で別の人格になりきっているときの不思議なエネルギーを、
うまく吸い取ったようなポートレートでの連載を是非やらせて頂きたいと思う今日この頃。
雑誌等で、そんな企画がありましたら是非ご連絡を!
Email : nakayama1999@aol.com

デビューしたての頃の家庭画報での対談の連載より。
撮影の度に、女性編集者に家庭画報史上最年少の
連載カメラマンなんだから、くれぐれも出演者に
失礼のないようにと、釘をさされていたのが懐かしい。
Hasselblad 500CM 100mm トライX