『人生はあみだくじだ。』と、思う。
そしてその生まれ落ちてからずっと繰り返してきた日々日常の選択という膨大なあみだくじの歪みのせいで、人は皆、やりきれない気持ちをどこかに抱えて生きているんだと思う。死ぬほどつらいことではないけども、すぐにはどうしようもないことが多い。酒を飲んで酔っ払って愚痴ったところでなかなか他人にうまく伝わるような類いのものでもないし、大抵は誰かに伝えようにも話が長くなりすぎる、、というよりも、そのあみだくじを経験した本人しか細かく正確なニュアンスはわからないかもしれない。
大学入学で九州・小倉から上京し、ろくに就職もしないでバブルの残り香を嗅ぎながら20代を過ごし30でカメラマンになり、どんなに胸を張るような仕事をしても何かうしろめたいことをしている気分にさせられるフィルム現像所の深夜金庫の鍵の開け閉めがなんとも嫌いでフィルムの引き取り・納品をしてくれる圏内の目黒区青葉台に科学特捜隊のようなコンクリートの家を建て、ベンツのワゴンに乗って、あみだくじの上を転がってきた。
生きるってのはほんとに不思議だ。自然界では生物は獲物を捕らえるため(カロリーを得るため)にカロリーを消費して傷つき老化していく。都会では、人は仕事が忙しいせいで運動不足になって時間を割いてジムやプールに通ったりして汗を流しながらそこの会費のために忙しく働き、美味しい料理とお酒でたるんだ体のためにもお金を使う。
?『人生はあみだくじだ』とは言ったものの、そもそも子孫を作るという行為以外は生きてること自体が選択うんぬんどころかおそろしく非効率であることに軽く驚いてしまう。
どうやらやりきれない気持ちは、時々笑って、ごまかしながら好き勝手にやっていくしかなさそうだw
『レギュラー満タン』『袋ください』くらいしか人と話をしない日もあってテレビもないおかげが、節分後に雲の様子が変わってきただけで嬉しくなるおっさんになってしまった。仕事の電話がかかってきても軽く日本語を忘れていて噛んだりするのは内緒だ。
流しに置いたグラスに氷が張っていても、冷え切った便座に座る度に心頭滅却しなければならなくても、52年のあみだくじの果てに手に入れたお気に入りの小淵沢の俺の空(部屋の窓)。
なんと俺史上、二十歳前に上京した時に初めて借りた風呂なし四畳半の次に安い家賃。
ふむふむ。。だいぶ、ふりだしに戻ったかもしれない。
『春よ来い。早く来い。』
(晩酌にて)
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