12.24.2010

父との旅

私の父は満州事変の年に、撫順のそばの「あんだ」という町で生まれた。
子供の頃からそのことを時々聞かされては、
いつか親孝行で満州に連れて行ってくれと言われて育ったせいで、
大学を卒業してから、割とそのチャンスを伺っていた。
27歳の時にそれまでの仕事がいやになり
プータローをするチャンスに恵まれた。
すかさずいろいろ調べて、おやじとの生家を探す旅を企てた。
60過ぎの親父が、宿も列車もいきあたりばったりな旅では、
辛いだろうということで、列車のチケットとホテルの予約と
瀋陽からの通訳兼ガイドを、中国系の旅行代理店にお願いした。
で、そのまま旅に出るはずだったわけだが、
その予約の後に、突然の神のお告げにより、私は中目黒にある
スタジオFOBOSに入ることになった。
(そのお告げに関してはまた別の機会に・・)
面接の際に、入ってすぐに10日ほど休みをとることを許して頂いて、
予定通りおやじとの珍道中が始まった。

中国語がしゃべれると言っていた父は予想通りからっきし役に立たず、、、
かれこれ10年間も別々に生活していた親子の旅は、
テレビドラマで見る程、幸せな感じにはならない。
救いなのは、北京から瀋陽までは大陸特急一本なことで、
何かを思い出すたびにぶつぶつ話をする親父に相槌を打ちながら
中国大陸の雄大な車窓の景色を楽しんでいれば良かったことだった。
走り去る景色の中で、どの家々も真っ白なきれいなシャツが干してあったのが
とても心に残っている。

食堂車で御飯にところどころ色が着いているのが気になり、
給仕の動きを見ていると、、
食べ残しの御飯をおひつに戻しているからだったり、
列車の連結部分に腐ったような野菜を捨ててあるようにしか見えないものを、
ときどきコックが取りにきたり、、、
まわりにいる乗客が全員といっていいほどインスタントコーヒーの空き瓶に
お茶っ葉を入れて水筒にして持ってたり。。。
おやじはひとりうんうんうなずきながら自分の世界に入ってる・・・

瀋陽に着いて、ガイドを待っている間に、、、
鏡に映したように全く同じポーズで立っている親父に衝撃を受けてしまった。
タバコの吸い方も同じ。
おそらくあんなことも、こんなこともそっくりなのかもしれない。
遺伝子、恐るべしである。

よせばいいのに道ばたで売っている砂まみれのスイカを食べ、
山盛りのピータンを平らげた親父は、夜中にホテルのベッドで大声をあげた。
コピー用紙のようなトイレットペーパーが嫌で、
腹の調子が悪いのに我慢してたようだが、歳には勝てなかったらしい。。
ホテルのロビーで薬と新しいシーツを貰っていると、
なぜか親父がやってきて「しえしえ」
部屋に戻る時に二人でエレベーターの中で大笑いしたのは
とてもいい思い出である。
エレベーターの中でもなぜかちゃんとビックミニを持っていて、
そのおやじの最高の笑顔を撮っているのは、さすが俺である。

「あんだ」の町に入ってニコンのF2とF4を首からさげていたら
見るからに旧式な銃を持った兵士たちに囲まれ、銃口を向けられた。
本物の銃に囲まれたのは、後にも先にもこの時だけだが、
ほんとにそうなると、、実は、引きつって笑うしかないのである・・・
「うおーしいりーべんれん、my father was born here 」では
銃口は下りなかった。
ガイドの説明を聞いて、銃口を下げ、
好きなだけ写真を撮れとジェスチャーしてくれた。

ぬかるんだ道をしばらく探して、父の生家を見つけることが出来た。
私にいろいろ説明しながら、表情が変わらないまま、父は涙を流していた。
悲しいとか、うれしいとかの気持ちではなく、
60年の歳月という時間に反応した「体」が涙を流しているようだった。
その家から、初老の男性が出てきた。
話を聞くと、シンガポールから帰化してそこに住んでいるらしかった。
よせばいいのに、、
一緒に飲みにいくことになった・・・
こわれかけたトタンで出来た食堂に入って、
よせばいいのに、、
おやじとそのじいさんはショットグラスでの飲み比べになった。
まあ、仕方ない、、
遺伝子が 同じでなくとも、私も同じ状況だったら同じことをする。。
とはいってもじじい同士、、3、4杯でリングアウトである。
酔っ払ったじいさんは、私のマルボロを見るなり箱から2本取り出し
そのまま鼻に突っ込んでしばし大声をあげて、
ふらりとどこかに行ってしまった。
息子としては、去り際にタバコを箱ごとポケットに
ねじこむべきだったかもしれない。

炭坑も見れたし、アジア号も見れた。
万里の長城も一緒に歩けたし、天安門も故宮も散歩した。

半分は親孝行できたかもしれない。。
母がフィリピンのマニラ生まれなのだ・・・

明治維新から第2次大戦までの日本人は、
実はとてもコスモポリタンだったように思う。

一見、高度経済成長は戦後の日本産業の実力のように言われるが、
実はその裏で東京オリンピックの借金を帳消しにするという名目で
国債を発行し続けてきたことに支えられていた一面も
あることを忘れてはならない。
今、不況で就職できない若者達を、思い切って海外に島流しにすれば、
きっと近い将来、新たな維新の志士となって日本の秘密兵器になると思う。

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