2.23.2011

四国ばあちゃん

母方の祖母は瀬戸内海の大三島というところに住んでいた。
小学生の頃は毎年といって言い程、
夏休みになると四国ばあちゃんの家に遊びに行っていた。
宮浦港の大きな鳥居の脇で、たばこ屋兼雑貨屋を営んでいた実家の建物は、
昔ながらの古い日本家屋で、
いまでも蚊取り線香のにおいを嗅ぐと、
文豪が登場しそうな2階の部屋や、古びたタイル貼りの風呂や、
軍服を着た祖父の遺影が飾られたせまい居間、
店の脇で海水を洗い流した使い込まれた蛇口の輝き、、
家の前に広がる瀬戸内海の情景が蝉の鳴き声とともに目に浮かぶ。
時折、道路から飛び込んで遊ぶ従兄弟のだれかが溺れては、
父親クラスが血相を変えて服を着たまま助けに飛び込んでいたのも、
今となってはいい思い出である。
いまだに濁った海に入るのが得意でないのは、
間違いなくこのお世辞にも綺麗とはいえなかった海で
足に絡み付いていた海藻のせいである。

独立して間もない頃、
久しぶりに四国ばあちゃんの写真を撮りに行った。
ばあちゃんの店は、相変わらず港の溜まり場になっていて、
お客さんもばあちゃんも、みんな腰は曲がっていたが、
とてもあたたかい空間だった。
子供の頃とまったく同じように、
ばあちゃんは「好きなアイス食べていいよ」と言ってくれた。
こっそりパチンコをしていたら、
周りのみんなには、タバコ屋のばあちゃんのとこの孫が来たとばればれで、
すぐさま近所中に広がり、
島の従兄弟が車で久しぶりな大三島を案内してくれた。

それから数年して、四国ばあちゃんは亡くなった。
私が物心ついた時から、既に足が悪く、
いつも荷車を杖代わりにして元気に歩き回る、
ずっと変わらなかったそのばあちゃんの記憶に、
もうひとつ、、静かに目を閉じて小さくなった顔が加わってしまった。

遺品の中から戦死した祖父とマニラで営んでいたバーの写真が出てきた。
カウンターにはびっしりとお酒がきれいに並べられた
素晴らしくオーセンティックな店の中で、
ゴールドラッシュに湧く外人達の古い写真のように、
客もばあちゃんもひかり輝いていた。
第2次大戦以前の日本人がコスモポリタンであることを強烈に感じた。
私の母親はこのとき、ここで生まれている。

アイスを貰うのもいいが、ばあちゃんが今までどんな人生を送り、
何を考えて生きてきたのか、きちんと話を聞いておくべきだった。。

そんな悔しさもあって、忘れないうちに、記録することが出来るうちに
何か残しておこうと思い綴っているこのブログである。
ネット上のこういうものが、今後どうなるかはいささか疑問だが、
そこにあった意思がなんらかの形で残る事を祈るばかりである。

2008年、BRUTUSの別冊TRIPの「しまなみ海道」取材で
とよしまの素晴らしいリゾート「ヴィラ風の音」を訪れた際に、
早朝に散歩していた私にオーナーが声をかけてくださり、
エンジンを2基積んだクルーザーで島の周りを爆走してくれた。
あまりの気持ちよさと迫力のどさくさまぎれに
大三島に祖母が眠っていることを話すと、
こころよく島まで乗せて行ってくれた。
水軍気分で豪快に瀬戸内海をクルーズして、
(この際に撮った本四架橋が特集の扉となっている)
しずかに宮浦港に入った。
鳥居は健在だった。
誰も住んでいない実家が残っていた。
入り口の引き戸のほこりだらけのガラスに
指で「達也参上」と書いた。
ライターの渡辺さんと3人で、港から大山祇神社までゆっくりと歩いた。
そしてアーケード内のベンチに3人が座った瞬間、、、
3月の31日という時期にもかかわらず、
いきなり大粒の雹がはげしく地面をたたいた。
あまりの迫力に言葉を失っている私にオーナーが、
「おばあちゃんがよく来たって言ってますね。。」
ほんとうにその通りだと思えた。

今度は、もう一つ行きたいところがある。
独立した時に撮りに行った四国ばあちゃんと島の写真を収めたアルバムが
島の役場に資料として保存されているらしいのである。
そのアルバムに、このブログをリンクするアドレスを
孫として、書き記したいと思ってる。
そして四国ばあちゃんの大昔の写真もここに追加していこうか、、、
などとロマンチックな事を思っている今日この頃である。

Hasselblad 100mm トライX