8.27.2011

室伏 広治

最高に美しい体を持った人間達が
世界中から集まる楽しいお祭り「世界陸上」が始まった。

たった今、室伏広治さんが予選突破の投擲をした。

彼とは2度、お会いしている。
一度は2001年の月刊現代のグラビア貌シリーズの撮影だった。
何かの大会にあわせて取材に伺ったが、
カメラの前に座っていただくことが出来ないということで、
望遠レンズで扉のページを撮影した。
じつは、この時が40ヶ月に及ぶこの連載の最終回だった。
40人目にして、初めて特写(カメラの前に来ていただいて撮影する)が出来なかった。
もちろん競技会なので神経質になってることは想像できるし、
余計な負担をかけてしまう可能性もあることは重々承知しているので、
400ミリレンズで遠くからシャッターを押しながら、悔しい思いをしたのを憶えている。

これは、まったくの私見だが、
この頃、彼は少しマスコミを遠ざけていたようなところあった。
カメラがあると、少し気難しそうに、避けていると感じられた。
なぜ、そう思ったのかというと、それ以前に一度彼にあったことがあったからかもしれない。


たしか、2001年からさかのぼること3,4年だったと思う。
ある陸上大会で、女性ランナーの取材をした地方の競技場の帰りだった。
当時はまだ、がらがらと転がすカメラバックはあまりメジャーではなくて
タムラックの大きなショルダーバックにヨンニッパ(400ミリ2.8)のレンズを抱えて、
駅と競技場を結ぶシャトルバスかなにかの停留所のベンチに座っていた時だった。
そこに、まだ体はそんなに太くはなかったが、
堀の深い見るからにハーフの顔立ちの、筋骨たくましい若者が歩いてきて隣に座った。
彼が室伏広治であることはすぐに理解した。
当時はまだ、ずば抜けた成績は残していなかったが、
父親との二人三脚で日本のハンマー投げの歴史を変えるかもしれない
男であることも知っていた。

いつもなら「かっこいいすね~」と軽くジャブで話しかけるところだが、
将来どこかでお世話になることもあるかもしれないので、軽く会釈だけして黙っていた。
サラブレッドとしての誇りもあるだろうし、苦悩もあるだろう。
あきらかにマスコミである大きなカメラバックをもった私に、
話しけかられるのも気持ちのいいものではないだろうと思ってのことだったかもしれない。

「カメラ、重そうですね~ほんと大変ですよね、、カメラマンの方も・・」
いきなり、半分外人の顔をしたターミネーターの100万倍ハンサムな男が話しかけてきた。
しかもかなりフランクに、こっちのお株を奪うようなお気軽さで、である。
「ハンマーよりはましですよ・・・」
なぜか、拍子抜けするように気軽に言葉を交わしたのを憶えている。

彼はいい男である。
たったこれだけの数分の会話だったが、
彼が取材嫌いだろうが、撮影を嫌がろうがそんなことは関係ない。

今、テレビで見る彼の顔は、とてもいい。
最高に撮りたい感じである。
てぐすねひいて待ち構えている業界のキャスティングに翻弄されないで
武骨に優しいおとこの顔であり続けてほしいと思う。

韓国で血管がぶちきれるくらいおもいっきりハンマーを投げられるように
影ながら応援している。

Canon EOS1N 400mm トライX
さて、そろそろボルト登場・・・

8.21.2011

小倉日記

企救(きく)中学校の同窓生を撮影する為に
8月12、13、14、15日と生まれ故郷の小倉に行った。

春の撮影は、昼間は学校、夜は元番長の経営する居酒屋で行ったが、
今回は、地元の連中と里帰り組みを同時に狙うために、
同期の女性が経営するスナックでフルタイム2日間、
みんなで飲みながら待機するという作戦だった。

小倉に向かう3日前に親父から小倉に住む叔父が亡くなった知らせが届いた。
小倉で新幹線を降りると、同期の女性が車で迎えに来てくれて、
そのまま線香を上げに行った。
東京に住むようになってすっかり疎遠になっていた叔父さんの家族に会うことが出来た。
仕事で小倉に行っても、なかなか会いに行けなかった不義理な私を
いとこ達と再会させてくれた叔父さんの遺影にゆっくり挨拶をした。

30年以上も会っていなかった同期のいとこに再会したら、
涙のひとつも出るかもしれないと覚悟を決めていたが、
驚くことにお互いの顔を見た瞬間、ばりばりの喪中にもかかわらず
二人で大笑いしてしまった。


それから撮影会場となるスナックへ向かいストロボのセッティングをして、
昼間のうちから手伝いに集まってくれた人たちの写真を撮りながら、
夜が来るのを待ちきれず、飲み始めた。

日が暮れて、5メートル程のカウンターが埋まるのにはそれほど時間がかからなかった。
店の入り口の引き戸ががらがらと開かれて、みんなの視線が注がれる度に、
それぞれの神経細胞が過去の脳内データを検索する刹那が繰り返される。
名前がすぐに出てくることもあれば、
まったく誰だかわからない経年変化をしてしまった人もいる。
相手がだれか思い出せなければ「お前、だれちゃ?」と平気で聞く始末。
カウンターには座りきれれないので、みんな遠慮なくカウンターの内側に入って、
手が空いているものがお酒を用意して乾杯の連続である。

小倉弁では久しぶりに会った男同士で、
まるで、からんで、喧嘩でもしているような挨拶が繰り広げられる。
「お前、なんしょんすかっ!」
>訳:あなたは、最近何をしていますか?調子はどうですか?

30年間、硬く凍っていたみんなの記憶が一瞬で解凍されて
湯気のようにそのエネルギーが立ち昇り、
カラオケを歌うもの、女性の手を握って離さないもの、
親達の不思議な行動を目をきょろきょろさせて観察している子供達が、
不思議な塊となって小倉の夜は更けていった。

2日目の朝、ほとんど寝ていないところを電話で起こされた。
金髪のショートモヒカンの友人からだった。
博多から駆けつけてくれた女子をピックアップして
ホテルまで迎えにきてくれるとのことだった。
すぐさまホテルの前にランニングを着た、
逞しい体の友人が可愛い軽自動車で迎えに来てくれた。
車とドライバーのミスマッチもすごいが、
子供が3人いるという二人の女性が金髪モヒカンの車の後ろに小さく座ってるのが
なんとも可笑しくて、さすが小倉である。
だいたい見た目がおっかない奴ほど、実はいい奴だったりするのが小倉なのである。
スナックでの撮影は13時からにしてあるので、なにか食べようということになり、
彼は行きつけのうどん屋に連れて行ってくれるという。
車はどんどん市街地を遠ざかり、細い路地を住宅街に向かった。
「よもぎ肉うどん」をご馳走になった。
自分がほんとうによく行っている普通~の(ちょい汚い)店に平気で連れて行く感じが、
なんだかとても嬉しかった。
(漁師が、再会した友人に船の生簀から烏賊を取り上げて目の前で絞めて、
烏賊の体がスーッと色が変わるのを見届けてから手渡してくれるような・・・
ぶっきらぼうでも、素朴でも、そんなもてなしが普通に行われるような関係が
大好きである。)

スナックに向かう車中で、ショートモヒカンの怖いおっさんと、
お子様が3人いる綺麗な奥様がなんだかとても低いトーンで
打ち解けた会話をしているのに違和感を覚えていたが
後から聞くと、二人は中学当時に出来ていたいたらしく。。
今回のこの撮影・同窓会企画はいろんなところで
時空を超えていたようで、、東京に戻ってから彼に電話をしながら、鼻で笑ってしまった。

13時すぎにスナックに着くとオーナーの女子が来ない。
店の前にモヒカンとロンゲのおっさん二人で30分ほど座り込んで待っても音沙汰なし。
入り口のシャッターは2枚あるが、いつも開けてるほうは鍵がかかっていた。
みんなで電話するが一向に出る気配はなし。
モヒカンの彼が痺れをきらしていつもは絞めっぱなしの開かずのシャッターを持ち上げたら、
あっけなくがらがらと上がっていった。
しかも店の引き戸は鍵がかかっておらず、そのまま入り込むことが出来た。
ストロボのチェックをしてるところにオーナーの女子から電話が入った。
「ごめん~朝10時まで飲んだんよ~声が出んけん電話でんかったんよ・・
お店開いてたやろ?いつも開けちょるけん」
そんなん知るか・・・言っとけよ・・である。
ま、小倉とはそういうところである。

2日目は先生達もいらした。
国語の女性の先生は当時の私のマドンナであり、
我が人生で始めてタイトスカートの魅力を教えてくれた方である。
当然、スカートの中を覗く作戦はみんなで練っていた。
今では校長先生になられた社会の先生が帰り際に
別の者が選曲した「アイラブユー」のマイクを奪い、歌った。
大学を卒業してすぐさま送り込まれた恐怖の不良中学で、
元気に先生デビューを果たした初々しかったその先生もずいぶん歳をとってしまった。

マドンナ先生に書いて頂いた文字
Hasselblad H3DⅡ-39 ISO50 120mm
この時に、気づいたのだが、小倉弁には尊敬語とか丁寧語が存在せず、
相手が元先生であっても同じ「なんしょんすか」言葉が使われていた。
英語のようでもあるが・・・やはりひどい言葉だ。

中でも嬉しかったのは、2年時に転校していて
仲が良かったにもかかわらず、まったくアルバム等での捜索にひっかからなかった
男友達がやくざのような迫力で夜遅くに登場してくれたことだった。
アルバムにも載っていない完全に脳の中だけの記憶なのに、
顔を見た瞬間、抱きつきたくなるほど興奮した。
途中で転校してしまった彼と再会できて、
写真をこの手で撮れたことは、ほんとうに嬉しかった。

そんなわけで当然飲み会は朝まで続き、
2日間にわたって飲みながらみんなのポートレートを撮影した。
気が付いたら一人で機材を片付けて無事ホテルに戻り、
カーテンの縁から染み込んでくる朝日を見ながら眠りについた。

1時間も寝ないうちにテレビドラマ「24」の主人公の電話の着信音がなった。
このときばかりは、ジャックバウアーになった気分で電話に出た。
迎えに車を出してくれた女性からで、
実はこの日に彼女の家で半分仕事の撮影をすることになっていた。
「疲れたでしょ~うちのお母さんが美味しい朝ごはん作ってるから食べにおいでよ」
「ちょ、、、、、、(殺す気か)」
酒も残っていて、2日間で3時間も寝ていないこともあり、
死ぬほど寝ていたかったが、湯気のあがる味噌汁のイメージが一瞬浮かんでしまった。
ジャックバウアーだってそう簡単に死なずに国を守ってるんだから、
俺だって味噌汁くらい飲めるだろうと意味不明な気合でシャワーを浴びた。

おばあちゃん・母親・長女・長男・次女の
家族団欒の素晴らしい湯気のあがる味噌汁朝食のおかげで再起動した。
子供達の顔がぴかぴかに輝いていた。
東京のカメラマンのおっさんとしては一泊の恩義に報いるためにも
写真くらい撮ってあげなければならない。
仕事そっちのけで、子供達の顔に夢中になってしまった。
めちゃくちゃ美しかった。おっさんの顔が大好物でいままでやってきたが、
子供の顔もたくさん撮っていつかまとめてみたい。

Hasselblad H3DⅡ-39 ISO50 80mm

自宅の一階でエステサロンを経営している彼女が翌日、
そんな顔じゃ、東京に帰せないということで、造顔リンパマッサージをしてくれた。
同窓生と2日間酒を酌み交わし、睡眠時間を削りながら過ごしたせいで、
まるで玉手箱を開けてしまったように、顔はくすみ、目の下には深くクマが出来て、
いつも若いと言われていたはずの自分の顔が疲れ果てて、
歳相応になったような気がしていた。
真っ白な霧に包まれたミストサウナに15分ほど入って、
ぼとぼとと汗を吹き出してから、リンパをしごくように顔を中心にマッサージを受けた。
1時間ほどして施術が終わり、鏡を見て驚いた。
肌がピカピカになって、顔のラインがシャープになっていた。
話を聞くと、どうやら郷ひろみさんあたりもひんぱんに同じようなことをやってるらしい。
エステ、恐るべし・・・

若返った後に、小倉でのギャラリーの下見で門司のブリックホールに向かう途中、
目の前に北九州の工業地帯が広がった。
幼少の頃にあの煙のせいで光化学スモッグが発生していた。
それとは裏腹に好景気を生み出し、子供ながらにラジカセを買ってもらったり、
家族で別府に温泉旅行にも行かせてもらった。
円高地獄の黒雲に覆われた工場の煙突からでる煙がなんとも虫の息のようで
すこし寂しくなったので、車を降りて道路を駆け上りiPhoneで写真を撮った。

iPhone4

なぜか自分の中では小倉のアクセスには飛行機はない。
大学入学で上京するときに母親から新幹線に乗る際に渡された
3万円の記憶を忘れない為なのか。。。
エアーで一人では間違いなく重量オーバーの超過料金を取られるせいなのか。。。
お盆の帰省ラッシュということで、神のお告げによりグリーン席になり、
携帯とパソコンを手元のコンセントに挿して、
モニターに映る女子達に硬い光をあてたことを謝りながら帰路についた。
時折、携帯メールに同級生達からメールが届く。
電話をくれる男もいる。


みんなからは消息不明といわれるほど、生まれ故郷を省みていなかった自分にさえ、
一瞬で打ち解けあい、しがらみもなく、何かあったらすぐさま駆けつけてくれる旧友達が
同じ時代を元気に生きてることがとても嬉しかった。
もちろん、長生きすれば、表ざたにすることも出来ないような
いろんな人生の闇を抱えている人だっているが、
人生の残り半分は各自のオリジンを深いところで共有している小倉の友同士、
時々、顔を会わせるのもいいなと、しみじみ感じた。

みんな、ありがとう。

さて、次は小倉に行けなかった関東組みの撮影である。
夏が終わる前に召集をかける予定。

8.17.2011

立川 裕大

数年前に、雑誌BRUTUSの企画で
陶器の名産地・波佐見を立て続けに3度取材に行った。
現代にあっても、人里からはなれて隔絶されたような、
煙突の立ち並ぶ波佐見の町をとても気に入ってしまった。

そのスタッフの中にとても特徴のある顔立ちをされた、
不思議な魅力のあるデザインディレクターがいらっしゃった。
彼の名は立川 裕大さん。
現在もいくつかのプロジェクトを推進されている。
・文化と社会と経済を紡ぐコンサルと企画
http://tckw.jp/

・革新性を探求する伝統技術
http://ubushina.com/

・「売る」「買う」を通じた復興支援
http://www.fplusproject.org/

デザイン関係のプロジェクトを、ぐいぐい前に進める方であり、
勝手な言い方をさせていただくと、
デザインと伝統的手仕事と社会を繋ぐ坂本龍馬だと思っている。

何度もロケでご一緒して、打ち上げ等で酒を酌み交わすうちに、
とても親しくさせていただくようになり、
先日、波佐見の製造業者の方が上京されて飲んだ際に、
いつ見ても不思議な顔を、是非撮らせて欲しいとお願いした。

とある日曜日、立川さんは息子さんを連れて我が家に来てくれた。
ほんとは、体を地中に埋めて、顔だけ出してイースター島のモアイ像にしたかったのだが、
お子様の前でそんな仁義なきことをするわけにもいかず、
シンプルに撮影させて頂いた。

撮影を頼んだ飲み会の時にも、
皆さんがどうしても写真が見たいとおっしゃっていたので、世界デビューして頂く事にした。
ハッセルブラッドの情報HPに、ユーザーの写真を掲示するページがあり、
一人月一枚応募できるようになっている。

是非、モデルで世界デビューを果たした立川さんの雄姿をご覧頂きたい。


せっかくなのでヌードも一枚
Hasselblad H3DⅡ-39 ISO50 80mm
追伸
「立川さん、今度は埋めるぜよ」

8.10.2011

『東北』田附勝写真集

原爆の日、皆は祈りを捧げただろうか?
震災と原発事故で世界は日本のために祈りを捧げてくれた。
日本は、中国の列車事故に祈りを捧げただろうか?
ノルウェーのテロに対して、祈りを捧げただろうか?

自然を畏れ、敬いながら、何かに祈りを捧げるということを
我々日本人は忘れかけているような気がしている。


スタジオフォボスという空間で同じ釜のストロボの光を受けていた
同士・田附勝が、2冊目の写真集を完成させた。

5年間に及ぶ荒行ともいえるストロボ一発のフィールドワーク=「祈り」が、
山の神と、海の神と、彼の写真の神を召喚している。

かつての戦友が、こんなにも祈りを捧げていたことが、悔しくもあり、羨ましくもある。


多くの神が眠っている東北は、放射能に汚染されてしまった。
我々日本人は、今一度「祈る」ということを思い出さなければいけないと思う。
祈り続けるということが、人間本来の生きるエネルギーを生み出すと信じている。

彼の写真集を宣伝するわけではないが、
日本に生きること、そして祈ることを再認識するきっかけになると思う。

血なまぐさいものも登場するが、本来生きるとはそういうことである。
子供達にも是非見て欲しい一冊である。

買うべし!
amazon
iPhone4

8.06.2011

8月6日「原爆の日」

セシウムビーフ?セシウム茶?
原発事故直後に騒いでいたヨウ素なんかそっちのけの大騒ぎ?
汚染されているのがビーフだけなわけがないのは、子供だってわかる。
一部の食材のみを取り上げて、目くらまし??

こんな状況が続くと、日本全国汚染食料だらけになってしまう。

未だに、汚染予報も汚染食料のデータも一般の人々に届くように報道されない状況で
将来的に、この国は大丈夫か?

8月6日の原爆の日をこんな状況で迎えてしまった悔しさを、
忘れてはならないと思う。


今日、とある先輩との話を通じて、
各人が、明るい未来に向かって、自分の信じる道を進むこと、
そして、後悔しない生き方をすることが、今もっとも大切なことだと強く思った。

撮りたいものに貪欲に真っ直ぐに向かっていくことが大事なことは
体が知っているはずなのに、妙な仕事癖が付いてしまったせいで、
すっかりそのことを忘れていた。


まずは中学同窓生の撮影・企救中(キクチュウ:企救中学校)第2弾!
同期の皆さん、
お会いできるのを、楽しみにしています!!

@神宮花火大会
Sigma DP2 ガードレール三脚

8.05.2011

竹中直人

1995年、雑誌VIEWSの「カリスマは語る」という連載グラビアで
竹中直人さんの写真を撮らせて頂いた。
8ページの構成なので、スタジオの外でも撮ることが多かったが、
竹中さんの時は、スタジオで全てやらせて欲しいと編集の小柳津さんにお願いした。
大河ドラマの豊臣秀吉役にキャスティングが決まったばかりの竹中さんの迫力に、
直球でシンプルに、時間を気にせずに向き合いたかった。

男性の顔を撮ることが好きになったきっかけの撮影だったかもしれない。
体の表面では汗を吹き出しながら、
全頁スタジオ撮影にしてもらった事もあって、
頭の中では、冷静に構成を考えることを学んだ撮影でもあった。

白バックで撮影しようとして、竹中さんが立ち位置に入りながら頭をなでているのを見て、
シルエットだけで十分ページになる!と判断して、
スタジオマンに「バック飛ばしだけでっ!」と叫んですぐさまシャッターを押した。

Mamiya RZ67 トライX プラス1 
プリント合成

寄り・引き・グレーバック・白バック・低速シャッターによるぶれ、を切り替えながら
約30分ほどで白ホリでの撮影を終えた。
この時に、時間の限られたカット数のあるバリエーション撮影というものは、
被写体に向き合わないで、机上の打ち合わせだけでは
構成するべきものではないのかもしれないということも感じた。

顔の寄りの時に、竹中さんがスッと顔の前で手を組んだ。
タレントさんの顔がこれだけ隠れていれば、普通はボツかもしれない。
これだけ顔を隠したラフは想定もしないだろう。

Mamiya RZ67 トライX プラス1
デジタル撮影が全盛になって、
撮影するカットごとにモニターに映し出される現場も少なくはないだろう。
想定したラフとモニターを見比べて写真の細かいことだけに目がいってしまって、
現場で奇跡の一瞬にしか現れない現実を見逃すことなく、
そういうポイントを大事に攻めることこそが、
より写真的な写真を撮るために大切なことだと思っている。

翌年の竹中直人さんの野趣あふれる素晴らしい豊臣秀吉の仕事を見て以来、
大河ドラマを毎年かかさず見るようになった。

8.04.2011

浅草サンバカーニバル

モノクロフィルムをローライに詰めて、
久しぶりにサンバカーニバルに出かけようと思っていたら、
震災の影響で、今年の浅草サンバカーニバルは無くなってしまったようである。

普段ではあり得ない衣装でパレードを行う人々の、
妙なエネルギーを感じられることと、
いたるところで通行規制がひかれていて、
標準レンズで人のアップの面白い写真を狙うための
写真的な勘を鍛えるにはちょうどいい「お祭り」だと思っている。

昨年の夏の終わりに撮影させて頂いた
2011年アサヒビールイメージガールの春輝さんも
スポンサーの枠で出場されるはずだったので、
こっそり会いに行きたかった事もあって、、とても残念である。

@浅草サンバカーニバル1993
 Rolleiflex2.8GX トライX
その代わりになるかどうかはわからないが、
未経験の幕張あたりのコスプレイベントにでも
出かけてみようかと思っている。

@浅草サンバカーニバル1993
Rolleiflex2.8GX トライX