12.29.2010

Jリーグ

ちょうどカメラマン独立の年に日本でのプロサッカーリーグが始まった。
師匠の瀬古さんの推薦を頂いて、
読売ベルディの専属オフィシャルフォトグラファーとなった。
実戦の撮影で望遠レンズ中心にカメラをラフに
使いこなすことを憶えることが出来た。
ろくに仕事も無いデビューの2年間、なんとか食いつなげたのも
この仕事のおかげであり、瀬古さんにはとても感謝している。

ぶれを活かした写真や、中判によるネガ撮影等、
試験的にいろいろ試みたが、
ひととおり記録としての写真もおさえなければいけないという
仕事のジレンマも感じることが出来た。

この頃のベルディのメンバーは、
カズさんやラモスさんを始めとして、
キャラクターがバラエティ満点で、
練習もキャンプも、撮影していてとても楽しかった。
始めから身近で撮影することが出来たおかげで、
その後のいろいろなポートレート撮影において、
すぐさま、ふところに飛び込む感じを体が憶えたんだと思っている。

400ミリや600ミリの望遠レンズを振り回して写真を撮ることは、
実はそう簡単なことではない。
絞りとシャッタースピードの組み合わせや
どのくらいまでAFが使えるのか?
自分の反射神経が、どこまでカメラとリンクするのか、、
どういうシーンや、間合いになった時に
迫力のある絵が捉えられるのか?
始めの3ヶ月くらいは、失敗の連続だった。
半年程経って、ようやく思い通りに使いこなせるようになったと記憶している。
望遠レンズの使い方をマスターしたおかげで、
どんな撮影でも、臆すること無くバリエーションが可能になるし、
実はスタジオ撮影でも200ミリクラスになると
いかにレンズを使い慣れているかが写真を決めることも多いと思う。

屋外でアサヒスーパードライのポスターで、イメージガールを撮っていても、
スタジオでナイキのポスターで、一流のアスリートを撮影していても、
今だにこのJリーグの仕事で培ったノウハウには感謝している。

Canon Eos1N 600mm F4 1/500 RHP

12.28.2010

Leaf (1993年)

スタジオマン時代。
徹夜明け、コンビニに行く途中、風に吹き溜められた落ち葉を拾った。
朦朧としながら、ストロボ直1灯で撮ったこの写真は、
シンプルでストレートな写真の大切さを、時々思い出させてくれる。

MAMIYA RZ67 クロス現像

墓地と摩天楼

1998年の夏に2週間、NYに写真を撮りに行った。
家電量販店で確認して最も早くシャッターが押せると確信した
ミノルタのおもちゃのようなCapios75と、ライカM6と、
FUJIのブローニー用の69GSW、
そして捨ててもいいようなぼろぼろのミノルタの一眼レフと
レフレックスの600ミリを用意した。

シートベルトの会社「TAKATA」の会報誌の撮影で
レンタカーでアメリカを縦断したときに、
高速道路で迷い、たまたま見た広大な墓地と摩天楼の風景をどうしても
写真に収めたくて、JFKの空港で思い切って白タクに挑戦してみた。
通常の空港からマンハッタンへのアクセスルートとは違う周り道ということで、
私の拙い英語で説明するのは気が引けたが、
墓地とスカイスクレイパーの写真を
車から撮りたい旨を話すとすぐに分かってくれて
正確な料金は忘れてしまったが、
少し色をつけただけで話がついた。
汗臭い車内で、ほんとうにちゃんとそのルートを走ってくれるか心配しながら
69にトライXを詰めた。
渋滞にぶつぶつ文句を言うドライバーに相槌を打ちながら、
太陽の角度がいい感じになってきたので、
ルートが合っていることを祈った。

車が流れるようになり、右側に突然例の墓地が見えてきた。
思った通り、、ランダムに立ち並ぶ無数の墓石と、
マンハッタンの高層ビルが見事にシンクロしていた。
世界の中心とされる街が巨大な墓標になっていた。
とっさに、距離計の目盛りでピントを合わせて、
標識の柱にかぶらないように数枚シャッターを切った。
もう、それで十分だった・・
また、いつか、、時間があるときは
墓地に足を踏み入れて狙ってみようと思った・・


その日から約2週間、最もスナップされることを嫌うニューヨーカー達に
ほぼノーファインダーによるワイドコンパクトとM6、
レフレックス600ミリとGSW69で立ち向かった。


この滞在から3年後、あの大惨事が起きてしまう。

12.26.2010

Thomas Foley

近頃、日本の政治家の顔が良くない。
誰一人として、仕事ができる政治家の顔に見えないのである。

男性のポートレートを撮ることも多いため、
プリントにしろデジタルにしろ作業しながら
一晩中一人の男の顔を見続けていると、
顔相占い師になったような気分になってしまう。

1997〜2001年まで駐日米国大使として赴任していた
Tフォーリー氏の政治家としての顔が強烈に記憶に残っている。

月刊現代の「貌」シリーズの連載担当編集の吉田さんと、
おそるおそるアメリカ大使館に足を踏み入れると、
ストロボケースとカメラバック、スタンドケースと
大型の荷物を3つ持っているにもかかわらず
セキュリティチェックらしいものもなく、すんなり中に招き入れられた。
流暢な日本語を話す係員に、チェックは無いんですね?と尋ねると、
はい、ただ何かあると大勢飛び出してきますから・・
と軽く言われてしまった。。
さすがアメリカ・・やるべきことはちゃんとやるようである・・
(官邸に入るときはX線検査はあるものの、よくそんな荷物持ってこれたな、
と笑いながら言った日本の官房長官の部屋は監視されているんだろうか )
一体何人がどこから覗いているかわからない居心地の悪い部屋で、
ベッチンの黒布を垂らし、ライトが倒れそうになったら
007が飛び出してきて支えてくれるかな?などと馬鹿なことを考えながら、
逆光気味にトップをいれる為にスタンドをどん(マックス)まで伸ばして
ストロボ1台2灯のセッティングをした。
部屋の真ん中には、天皇陛下とマッカーサーが会談の際に
写真を撮ったピアノがそのまま置かれていた・・

登場したTフォーリー氏は、ハリウッドスターよりも
ハリウッドスターのようだった。
とても70歳とは思えない若々しさで、フランクかつジェントルマン。
ボキャブラリーが貧弱で申し訳ないが、
あきらかに西部劇に出てきて悪党を全部やっつけてくれる人が
ビシッとパワースーツなのである。
戦わずして勝つオーラと、
嘘なんてつくはずない誠実さをひしひしと感じさせる。
もちろん政治がきれいごとだけではなくて、裏の顔だってあるだろうが、
とにかく、懐の大きそうなジョンウェインなその顔に、参ってしまった。
女も男も政治家も、、やはり顔が命である。
男の顔はヌードだと思ってる。
間違いなく男の顔には生き様が刻まれるのである。

カラーでピアノの前と、中庭、
モノクロのポートレート、3カットを頂いた。

後日、編集部の吉田さんのところに、
御本人から直々にお礼状が、届いたそうである。
さすがである。

日本の政治家も、誰と会うとか会わないとかじゃなくて、
きちんと「仕事」をして、生き様を顔に刻んで頂きたい。

Hasselblad 150mm F16 Try-X

12.24.2010

Jodie Foster

1997年にジョディフォスター主演の映画「コンタクト」が
ロードショーになるという話を聞いて、
講談社のFrau編集部の山内さんに、もし彼女が来日するのであれれば
記者会見でもいいから撮影させて頂けないかというお願いをしてあった。

どんなジャンルであっても、彼女がスクリーンに登場して2秒くらいで
完全に映画の世界に引きずり込まれてしまうのである。
彼女が外人なおかげで、テレビでバラエティに出て、
自分のプライベートをさらすのを
見ていないおかげもあるのかもしれないが、
彼女の仕事(映画)を見ることが、大好きなのである。
そんな彼女を生で一目見ておきたかったというのが本音である。

マスコミ各社による囲みの写真撮影は
たしか帝国ホテルだったと記憶している。
現場に着くと、カメラマンたちが20人くらい既に集まっていた。
記者会見のコーディネーターとおぼしき人物が、
われわれカメラマン達に向かって、
「撮影はどこがいいですか?」と聞いてきた。
だれも返事をしないので私はここにしましょうと、
森を描いた大きな絵の前を指し示した。
用意したカメラはハッセルとナショナルのストロボ480。
当時はまだ積層バッテリーである。
記者会見の多くは35ミリの望遠で、被写体が笑うたびに機関銃のように
フラッシュが焚かれ、だれが撮っても似たりよったり、、、
しかも、250分の1秒で撮っていても他人のストロボが同調するような
おそろしい状況になるのである。
私は、ここだけの話、ブックに入れるための
ジョディのポートレートを撮りに来たのである 。
ハッセルに150ミリを付けて、ストロボ480のヘッドを
天井バウンス用に上向きにたてて、
そのストロボにバウンスも兼ねて全紙のケント紙を4分の1に折って
被写体に垂直になるようにパーマセルでしっかりと固定した。
こういうホテルの空間はブラウンの壁紙が多いため、
ストロボをバウンスして使う場合は、派手な発色のフィルムを使うと
シャドウに不自然に色が乗りすぎることが多い。
そこで良く使っていたのが、ある意味色に鈍感なEPNで、
同じような状況の撮影で、
いい感じにまったりアンバーをかけた状態になるのを体が覚えている。
まわりにいるカメラマンに露出を計ってくれなどと
無粋なことを言えるはずもなく、
ストロボのパワーをフルにして絞りを勘で8に設定。
誰もいない立ち位置に向かってポラを切った。
天井が思ったより低いのが幸いして増感すれば8でいけそうだった。
予想通りカメラマンはどんどん増えて30人以上になってきていた。

必殺技を出すことに決めた。
実はストロボに貼ったケント紙は
アイキャッチにも正面光の補助にもなるが
それほど大きなものにしたのは理由があった。
予め用意していた太いマジックでケント紙にその場で書き込んだ。
「Welcome to Japan!!
I am a Big Fan of you since "Taxi Driver"
So happy to see you!
Enjoy Japan! Thank you!!」
まわりの連中がじろじろ見て、そうとう恥ずかしがったが
本当なんだから、しょうがない。。。

立ち位置できっちり150ミリで上半身を狙える真正面に座って陣取った。
距離的には通常の囲み撮影よりは近い気がしたが、
150より長いハッセルのレンズは当時は持っていなかった。
この前線は死守しなければならない。
私より前に陣取る猛者なカメラマンがいなかったことも幸いした。
カメラマン達が私のラインに大勢並んだので、
もう前線を下げられる心配は無くなった。

ほどなく彼女は登場した。
コーディネーターに促され私の目の前に立った彼女は
ハリウッドスターというよりも、聡明な普通の女性だった。
伏せていたカメラを構えた。
すぐに彼女はケント紙のメッセージを見て笑ってくれた。
頂きである。
私は丁寧に一度シャッターを切って、
ポケットに入れたあったマガジンと換えながら
ケント紙ごしに彼女を見ると、ずっと笑いながら私を見ていた。
なぜなら私が、「撮ったらどけよ!しゃがめよ!・・」
などと後ろのカメラマン達にののしられながら
どつかれていたからである。
いくらどつかれようが平気である。
ストロボ光だけでとっているのでぶれはしない。
ジョディを撮るのにテストロールを作らないわけにはいかない。
切り現なんてとんでもないのである。
こころの中で「まだこれからだよ」
といいながら笑顔で本番ロールである。
12枚、ストロボのチャージを待ちながら
手巻きのハッセルで丁寧に撮っている間、
約2分くらいだろうか。。申し訳ないが完全に二人の世界だった。
フィルムが終わると、彼女はす〜っと目の前から居なくなった・・
囲み撮影終了である。

後日、掲載誌が送られてきてびっくりした。
二人の世界の写真が表紙になっていたのである。
とりたててフィルムの納品時に大騒ぎしたわけでもないのに、
既に別のカメラマンが撮影してあった
某大物女優のカバーの座を奪ったのである。

記者会見の何気ない写真も、
きちんと目を通しいてくれたことに感動したのを覚えている。
さすが編集長である・・・
メリークリスマス

Hasselblad 500CM 150mm F8 1/250 EPN

父との旅

私の父は満州事変の年に、撫順のそばの「あんだ」という町で生まれた。
子供の頃からそのことを時々聞かされては、
いつか親孝行で満州に連れて行ってくれと言われて育ったせいで、
大学を卒業してから、割とそのチャンスを伺っていた。
27歳の時にそれまでの仕事がいやになり
プータローをするチャンスに恵まれた。
すかさずいろいろ調べて、おやじとの生家を探す旅を企てた。
60過ぎの親父が、宿も列車もいきあたりばったりな旅では、
辛いだろうということで、列車のチケットとホテルの予約と
瀋陽からの通訳兼ガイドを、中国系の旅行代理店にお願いした。
で、そのまま旅に出るはずだったわけだが、
その予約の後に、突然の神のお告げにより、私は中目黒にある
スタジオFOBOSに入ることになった。
(そのお告げに関してはまた別の機会に・・)
面接の際に、入ってすぐに10日ほど休みをとることを許して頂いて、
予定通りおやじとの珍道中が始まった。

中国語がしゃべれると言っていた父は予想通りからっきし役に立たず、、、
かれこれ10年間も別々に生活していた親子の旅は、
テレビドラマで見る程、幸せな感じにはならない。
救いなのは、北京から瀋陽までは大陸特急一本なことで、
何かを思い出すたびにぶつぶつ話をする親父に相槌を打ちながら
中国大陸の雄大な車窓の景色を楽しんでいれば良かったことだった。
走り去る景色の中で、どの家々も真っ白なきれいなシャツが干してあったのが
とても心に残っている。

食堂車で御飯にところどころ色が着いているのが気になり、
給仕の動きを見ていると、、
食べ残しの御飯をおひつに戻しているからだったり、
列車の連結部分に腐ったような野菜を捨ててあるようにしか見えないものを、
ときどきコックが取りにきたり、、、
まわりにいる乗客が全員といっていいほどインスタントコーヒーの空き瓶に
お茶っ葉を入れて水筒にして持ってたり。。。
おやじはひとりうんうんうなずきながら自分の世界に入ってる・・・

瀋陽に着いて、ガイドを待っている間に、、、
鏡に映したように全く同じポーズで立っている親父に衝撃を受けてしまった。
タバコの吸い方も同じ。
おそらくあんなことも、こんなこともそっくりなのかもしれない。
遺伝子、恐るべしである。

よせばいいのに道ばたで売っている砂まみれのスイカを食べ、
山盛りのピータンを平らげた親父は、夜中にホテルのベッドで大声をあげた。
コピー用紙のようなトイレットペーパーが嫌で、
腹の調子が悪いのに我慢してたようだが、歳には勝てなかったらしい。。
ホテルのロビーで薬と新しいシーツを貰っていると、
なぜか親父がやってきて「しえしえ」
部屋に戻る時に二人でエレベーターの中で大笑いしたのは
とてもいい思い出である。
エレベーターの中でもなぜかちゃんとビックミニを持っていて、
そのおやじの最高の笑顔を撮っているのは、さすが俺である。

「あんだ」の町に入ってニコンのF2とF4を首からさげていたら
見るからに旧式な銃を持った兵士たちに囲まれ、銃口を向けられた。
本物の銃に囲まれたのは、後にも先にもこの時だけだが、
ほんとにそうなると、、実は、引きつって笑うしかないのである・・・
「うおーしいりーべんれん、my father was born here 」では
銃口は下りなかった。
ガイドの説明を聞いて、銃口を下げ、
好きなだけ写真を撮れとジェスチャーしてくれた。

ぬかるんだ道をしばらく探して、父の生家を見つけることが出来た。
私にいろいろ説明しながら、表情が変わらないまま、父は涙を流していた。
悲しいとか、うれしいとかの気持ちではなく、
60年の歳月という時間に反応した「体」が涙を流しているようだった。
その家から、初老の男性が出てきた。
話を聞くと、シンガポールから帰化してそこに住んでいるらしかった。
よせばいいのに、、
一緒に飲みにいくことになった・・・
こわれかけたトタンで出来た食堂に入って、
よせばいいのに、、
おやじとそのじいさんはショットグラスでの飲み比べになった。
まあ、仕方ない、、
遺伝子が 同じでなくとも、私も同じ状況だったら同じことをする。。
とはいってもじじい同士、、3、4杯でリングアウトである。
酔っ払ったじいさんは、私のマルボロを見るなり箱から2本取り出し
そのまま鼻に突っ込んでしばし大声をあげて、
ふらりとどこかに行ってしまった。
息子としては、去り際にタバコを箱ごとポケットに
ねじこむべきだったかもしれない。

炭坑も見れたし、アジア号も見れた。
万里の長城も一緒に歩けたし、天安門も故宮も散歩した。

半分は親孝行できたかもしれない。。
母がフィリピンのマニラ生まれなのだ・・・

明治維新から第2次大戦までの日本人は、
実はとてもコスモポリタンだったように思う。

一見、高度経済成長は戦後の日本産業の実力のように言われるが、
実はその裏で東京オリンピックの借金を帳消しにするという名目で
国債を発行し続けてきたことに支えられていた一面も
あることを忘れてはならない。
今、不況で就職できない若者達を、思い切って海外に島流しにすれば、
きっと近い将来、新たな維新の志士となって日本の秘密兵器になると思う。

Konica Big Mini 自然光オート Try-X

12.23.2010

Usain Bolt

2009年の9月に講談社週刊現代の吉田さんから電話を頂いた。
吉田さんは以前、月刊現代の40ヶ月に及ぶグラビア「貌」シリーズの連載で
御一緒させていただいた戦友である。
「11月、、海外、行けるよね? 」
「??・・行く行く、、オバマさん?」
「いや、、足の速いやつ・・」 

コーディネーター兼ネゴシエーター兼通訳として、
ゴルゴ13な大野さんと3人で11月にジャマイカに向かった。

ボルトは約束の時間に20分遅れてやってきた。
事前に約束していたナショナルユニフォームも靴もメダルも持っていなかった。
さすがジャマイカンである。
週刊現代の新年号のグラビア用であり、
想定していた武器(メダル、靴、ユニフォーム)が無く、
バリエーションは必要なので臆することなく上半身を脱いで頂いた。
鍛えられた黒人の裸は、悔しい程に美しい。
鍛えたというより、われわれ日本人とはあきらかに設計図が違う感じがする。
東京から持ってきた1m80cmのロールペーパー2本と
1台2灯のストロボを使って、30分程で一通りの撮影を終えた。
世界最速の男の素足の写真をきちんと撮ろうと狙っていたのだが、
「きたない足を見せたくない、へんな形してるから」
友人たちも「やめとけ、やめとけ」 
そう言われると余計撮りたくなるわけで。。。
何度もお願いしてはみたが、叶わなかった。
インタビューも終わり、ホテルで用意した食事を
フランクにほおばっていたが、飲み物は自前のもののようだった。

実家にもおじゃましてユーセインの御両親にもお会いした。
(地元ではユーセインと発音していた)
とてもおだやかで素敵なお二人で、
動きがとてもゆっくりなのが印象的だった。
なんだか大人であることをゆっくり動くことで表現しているようだった。
とてもダンディーなお肉屋さんである父親に近づいて
「so cool~like a hollywood movie star」と話かけたら、
笑いながらおどけて私の肩を抱いてくれた。
おかげでいい写真を撮ることができた。

ホテルでボルトを撮影した夜、
WiFiのつながるロビーで電話をいじっていたら
ビーチでサッカーをして大騒ぎしているグループがいた。
もしや?と思い見に行ったら、
なんとボルトが友人たちと裸足で削りあいながら、
ボールを追っかけていた。
世界のトップランナーが裸足で思いっきりボールを蹴って、
彼自身もふっとぶくらい削られているのにも驚いたが、
砂だらけになって動きまわる彼らの力強さに圧倒された。
こんな連中と日本代表はサッカーしてるんだと思うと、
かなり尊敬した。
カメラを持って砂浜におりると、
友人たちは始めは暗闇の中からこちらをのぞくプーマのように私を睨んだ。
さすがに怖かった。どうやら幼なじみグループのようだった。
この集合写真は頂かなくてはならない、、
30分ほどして交互にシャワーを浴びる彼らに
「group photo please!」と何度もお願いした。
始めは、「こいつ何言っとんじゃ?」だったがプリーズを繰り返しながら
立ち位置を両手で指し示していたら、なんとなく集まってくれた。
ベタではあるが20人くらいになると、大声の合図が集合写真を決める。
けんかをしたら2秒で負けると思うが、
シャッターを押す間だけはカラヤンにならなければならない。
「Hi~~stop!」6回叫んだだけで翌日まで声が枯れるほど大声をだしてやった。
紙面も飾ったこの集合写真の人数分のプリントは
ちゃんと彼らに届いたのだろうか・・

ジャマイカ最後の夜は屋外に巨大なステージを組んだ
ボルトの世界記録を祝うパーティーだった。
9:58というタイムを冠した催しで
関係者にきくと9時58分スタートということだったので、
ストップランプの壊れたトラックが走る夜の高速を急いだのだが、
一向に始まる気配はない。。。
11時ころになってようやく関係者が入り始めてステージが始まった。
時間を遅らせるというのはこの国の文化かもしれない。。
本場ジャマイカのレゲエのミュージシャンたちが入れ替わりで登場し始めると、
どこからともなく普通にラテックスのパンツを履いて
色とりどりにドレスアップし、
見たこともないような編み込みスタイルのヘアーの女性達が湧いてきた。
プラスチックのカップでお酒を飲みながら、
原っぱにヒールを履いてつま先立ちなはずの彼女たちは
約5時間もくもくと体を揺すっていた。

その場で出会った首都キングストンに住む日本人女性に
殺人事件発生世界No.1の状況を尋ねると
どうも彼らは闘争本能がすぐに発揮されてしまうようで
暴力団の抗争が原因らしいのだが、
結局強いものが現れるとそれを倒したくなるという連鎖が
繰り返されているらしい。
「普通に車に拳銃を置いているので
なにかあるとすぐ撃っちゃうみたい」ということだった。


きな臭い会場を6時間もさまよいながら写真を撮って
朦朧としながらホテルに戻ってデータを整理した。
結局あまり寝ることは出来なかった。
というのも、そのままNYに飛んで
2時間程仮眠をとってすぐにJFKに行かねばならず、
万が一、警察犬がいたらアウトの可能性も憂慮して、
全ての撮影データを吉田さんと大野さんに
それぞれバックアップを持って頂く為だった。


JFKに入る前に吉田さんが
「とりあえず何かあったらデータを日本に届けてから、何とかしますから」
 仕事とは、そんなもんである。
何事もなく、日本に到着して新年の紙面を飾ることができた。
本当は表紙ににも使って頂きたかったが、
女性タレントの座を奪うことは出来なかったようである。

ジャマイカは再び訪れたい場所となった。
美しい海と森と、ユーセインボルトの足を撮るために・・・

Canon Eos1DsMkⅢ 24~105

12.22.2010

Tiger Woods

2006年、GQの根本さんと
宮崎のダンロップフェ二ックストーナメントで、
タイガーウッズを追っかけた。

名前からして神がかってると思うのだが、
紳士的で優しい物腰の彼が、
タイガーチャージとよばれる、スコアーを伸ばしながら、
どんどん集中していく様は、まさに獣のタイガーのようで、
ほんとうにかっこいい。
タックの入った太いパンツに、
なんでもないセーターなのにかっこいい。
彼が現れなかったら、ゴルフを取り巻く環境も
全く違ったものであったと思う。

かくいう私は取り立てて早朝から起きだして
ゴルフに出かける趣味はないけれど、
いちおゴルフデビューは オールドコースではなかったが
聖地セントアンドリュースのデュークコースである。
長い付き合いの悪友二人と、故ダイアナ妃の弔いをかねて、
イギリス・スコットランドを10日ほどかけてドライブした際に
立ち寄り、宿泊してプレーをした。
地面がプールサイドに芝生が生えてる様なこつんこつんな感じに加え、
ブッシュというらしい荒れ果てたようなしげみだらけのせいで、
20個以上も、ボールをロストした。
その後も2度、セントアンドリュースに撮影で行くことが出来たのも、
タイガーウッズがゴルフ界にいてくれたおかげであると思っている。

タイガーをフェニックスで撮影するために、
Eos5D(初期型)を購入した。
それまでも1Ds等をレンタル撮影していたので、
アナログ時代のワイドズームレンズの描写が甘い以外は、
取り立てて問題は感じなかったし、こういった取材ものに関しては、
デジタルは非常に向いていると思うし、
当時感度はあまりあげられなかったが、
フィルムチェンジも必要なく、随時被写体の動きを確認できるのは、
とても便利だった。


試合はタイガーとハリントンのプレーオフとなり、
2度目のプレーオフの際に、
カートでティーグランドに戻る選手たちに追いつかず
コースの中程でティーショットを狙った。
ファインダーでタイガーをのぞいていると、まわりがざわめきたった。
目の前の枯れた松の葉の上に彼のボールが転がってきた。
写真の神様降臨である。
タイガーのボールの写真は、実は狙っていた。
私のブックのなかに、
なんとしても、彼のポートレートとして
タイガーと名前が入っているであろうボールの写真を納めたかった。
ボールだけを撮りにきているわけではないので、
ちゃんと名前が入ってるかどうかは、
確認できないまま迎えたプレーオフだった。
レンズはいくつでいくのかを考えながら
「頼むから名前入りで、、ちゃんと上を向いていてくれ!!!」
写真の神様に祈った。
観衆がボールからさ〜っと離れる波とは逆行してボールの前に立った。
まさにブツ撮りをするような理想的な角度で
TIGERという文字が上を向いていた。

フィルムの残り数も心配することなく、ピントとぶれに注意しながら
夢中でシャッターを切った。
顔を上げると、タイガーが「ちっちっち」と
人差し指を振りながら向かってきた。。
「ちっちっち」はETが映画の中でやるものだとばかり思っていたが、
生まれて初めて生でやられてしまった・・・
きちんと歯で舌をかみながら彼の顔をみて「さんきゅ」とつぶやいた。

後日、GQ編集部の根本さんは
フェニックスから注意の御連絡を受けてしまったようで・・・
関係者のみなさま、ごめんなさい。
この写真は、根本さんがたちあげた新しいスタイルのゴルフ雑誌
「CARRY million-mile」2010 A&Wにも見開きで掲載された。

やはり写真の神様はいるのである。

Canon Eos5D                                   

12.21.2010

Sunday Silence

私が初めて自分で営業して頂いた雑誌ナンバーの仕事、1994年。
当時、中古のローライフレックス2.8GXと
100ミリ付きのハッセルで撮影した6×6の写真ばかりのブックを
見て頂いたナンバー編集部のデザイナーの関口さんから、
馬をモノクロで6ページの お仕事を頂いた。
「ハッセルでがつんとモノクロで!」と言われたのはいいが、
持ってるのはレンズ100mm一本のみ。
もちろんそれで臨むことも考えたが、
ハッセルのセットくらい持ってないと話にならん!と思い込み・・
たしか撮影まで半月くらいだったと記憶しているが、
死ぬ気でお金を集めて、銀座のレモンでハッセルを買いそろえた。
ハッセルのショーケースの前で、これとこれとこれ、、
ポラバックも下さい!
と言ったのはほんとうに気持ちが良かったし、
記念すべき写真人生の気合いの1ページだった。

今だったら望遠用の35ミリや、
リモート撮影用の機材も準備したくなるところだが
当時はショルダーのタムラックにハッセル2台とレンズ4本をつめて
馬に対してはストロボは使えないので、、
「刀は一本で十分!」な感じだった・・・

北海道の社台ファームで、
初日サンデーサイレンスの様子を見ながら撮影し、
どうしても馬が走るところを撮りたかったこともあり、相談すると、
早朝に馬小屋を出るときだけしか走らないとのこと・・・
翌日、レンタカーで眠そうな編集の今泉さんとファームに向かった。
初仕事で車を借りるのも、すこし気が引けたが、
そんなことより日本で一番のサラブレッドを
自分が撮影できる喜びでいっぱいだった。

いざ、、走るといっても、柵をあけた瞬間に飛び出ただけだった。
手巻きのハッセルでたしか2枚しか撮れなかった・・
種付け数千万ということで、撮影ごときで刺激して、食欲が落ちたら
だれも責任がとれないので慎重に撮影しなければならない状況で、
なんとかお願いして屋外で撮影させて頂いたのだが、
初めて使うディスタゴンで寄りすぎて、
なんと新品のレンズをなめられてしまった・・
カールツアイスの新品の前玉に緑の牧草ジュースの洗礼である。
50ミリのディスタゴンで馬の顔を狙って目にピントを合わせようとすれば、
必然的になめられる距離であることぐらいわかるようなものだが、
そのときは全身もおさえるつもりもあり、
はじめにワイドを付けていたんだと思う。。
とにかく迫力を出したくて、うしろでひやひやしている視線を感じながらも、
どんどん近寄って撮影した。
ちょうど空がプレーンな雲に覆われてシンプルな白バックにすることが出来た。
とにかく、楽しかった。
アシスタントもいないのでひとりでどんどんレンズを変えながら、
フィルムチェンジも新品のマガジン3つのみ。
夢のような4マガジンだった。。。
夢中になって被写体と対峙すると、
信じられない程、汗が吹き出るのも
このときに初めて感じたような気がする。

後日数百枚のプリントを持って、編集部に行ったら、みんな笑っていた。
気合いと自信のプリントだったが、今思えばたしかに多すぎる。

それ以来、レンズにはいっさい保護フィルターを付けないようになった。

奇跡のデビュー戦のバライタは今もリビングに飾ってある。

Hasselblad 500CM 150mm Try-X