6.28.2024

父の死

 2024年、ゴイールデンウイークに父が死んだ。

亡くなる前夜に、自宅介護をしている長男から息子兄弟4人のホットラインに緊急招集がかかった。食事がストップして尿の量が減り訪問医療のドクターからも危ないかもしれないと告げられたからだった。

実家に行くと、父は目をつぶったまま細かい呼吸を繰り返していた。急に危険な状態にならない気がして、いつも一人で老々介護をしている長男に息抜きで近くの温泉にでも行ってくれば?と促した。兄は出かけ際『時々、息が止まって無呼吸っぽくなるけど、すぐに復活するから〜』と言った。

実家に父と二人きりになったので、カーテンの隙間から入るわずかな光で手の写真を撮った。思い起こせば30年数年前、写真を生業にすると決めてデビューするタイミングで父親のいい写真が撮れないようでは、他人のいい写真など撮れるはずもない、と意気込んで父を丸裸にして撮った組写真がコダックのコンテストでグランプリをもらったのはいい思い出だ。

声をかけても目をつぶったままなので、数枚手の写真を撮ってカメラを脇に置いて、写真にもなっている父の左手を包むように握りながら「スーパーモデルありがとう。おつかれさん』と声をかけた。長年の大工仕事で骨太で肉厚だったはずの手がまるで骨格標本にビニールの皮をかけただけのような感触の小さくなった手に愕然とした。体温高めの自分の手のぬくもりでエネルギーを送るつもりで『ハンドパワー...』とつぶやきながら両手で父の手を包み込んだ。

数分経っただろうか、突然、父の手がまるでホッカイロがピーク時のように熱くなった。オオ〜俺のハンドパワーも捨てたもんじゃねえなと思っていたら、父の口がもごもご動き出して何かを話そうとして目をかすかに開いた。慌ててカメラを取り目を開けた写真を撮ってすぐに熱い手を握った。すると今度は口を強く閉じて、体の力が抜けるように目を閉じながらゆっくりと口が開いた。てっきり寝たんだと思って様子を見ていたら、さっきまで細かい呼吸を繰り返していた口が息をしていなようだった。時々、息をしなくなるからという兄の伝言があったので、ま、三十秒もすれば息をするだろうと思ってたら一向に動きがなかった。

『ええ〜〜死ぬなら死ぬって言ってよ〜〜!!』と思いながら握った手の手首に人差し指で脈を探っても反応がない気配で、『ああ〜〜病院なら心電図がピッピッツーって教えてくれるけど、これじゃわかんねぇ〜〜』

父の左手を握ったまま、息を引き取った瞬間となった。

どうしていいのかわからず緊急連絡先の看護士と長男に電話をした。

すでに約3年くらい入退院を繰り返す両親の自宅介護をしていた長男が慌てて帰宅した。首や手首で脈を取ろうとする長男に『ごめん、俺が看取った感じになっちゃったかも...』と声をかけたら苦笑いしていた。

すぐに来てくれた訪問医療のドクターの診断は老衰だった。久しぶりに息子兄弟4人が集結していつもお世話になっている看護師とともに父の着替えをした。そして、ご臨終には間に合わなかったが、『無理やり曲げると中身出るかもだから気をつけて〜』などとみんなで笑いながら写真を撮った。

エネルギーを送ろうとして握りしめた左手があんなに熱くなったのは、もしかしたら父の命のエネルギーが逆にこちらに流れてしまった現象だったような気もして、そのことを兄弟たちに話したら、達也の手はゴッドハンドとは逆の死神の手なんじゃない?と笑われてしまった。

膨大な親父の写真が、亡くなった瞬間にその全てが『遺影』というものに変身した。写真の代表的な魔法の一つだ。

中山一族の記憶として、香典返しに同梱したい思いもあって、小さな写真集を作成した。満州に生まれ、日華事変が始まる頃に日本に逃げ帰り、天草にたどり着き、結婚して北九州小倉に工務店を立ち上げて、その後、東京、山梨と移り住んできた93年間の旅が終わったことを実感した。






子供の頃から、頻繁に言われ続けた『いつか、生まれ故郷の満州と生まれた家に連れて行ってくれ』という親父の夢も、1991年に彼が還暦の年に親孝行することができた。自分が今、還暦の年に親父が旅立ったというのは、なんとも不思議なタイミングだと思う。満州への道中、中国の宿のトイレットペーパーがあまりにも硬いので、トイレに行くのをためらった親父が、夜中に絶叫とともにシーツを汚してしまい、替えシーツを取りに行くエレベータの中で撮影した還暦の親父の最高の笑顔も掲載した。ずっと再会したかった伝説の満州鉄道の蒸気機関車アジア号にも出会えて、よほど嬉しかったのか珍しくお土産用に買ったTシャツをすでに着ている。


骨壷に溢れるほどのお骨が残った。

骨盤と大腿骨をつなげていたチタン製の金具が出てきたので、まだ熱いまま紙にくるんで持ち帰った。寝たきりでやせ衰えた骨と皮だけの体を動かそうとするたびに足が痛いと唸っていた理由が良くわかった。筋肉というクッションが減ってむき出しの神経を刺激していたのだ。

カメラマンとしてデビューする際に素晴らしい写真賞のモデルとなってくれた彼の『貌』を撮影することはもう無い。父の写真というジャンルの撮影はこれで完結した。


それぞれが涙隠しに用意したサングラスは、ネタに思えるほど笑顔溢れるお見送りとなった。

位牌・戒名は、自ら手作りで用意してあったもの。

さすが、大工!


晩年、記憶が時空を超えるようになり、寝たきりのくせに九州の現場に行くから自転車買ってきてくれと、しきりに話していた親父。

痛みから解放されて、好きな時に好きなタイミングでどこにでも飛んで行ってほしい。


おとうさん

享年93歳 山梨県北杜市にて永眠

たくさん、ありがとう。

そして、お疲れ様でした。