7.25.2011

広末涼子

夕方、自転車で東急ハンズに撮影に使う小物を買いにいったついでに、
大きな書店に立ち寄った。
何気なく女性誌を手に取って、ページをぱらぱらとめくると
女性の肌がどれも美しくぼかし修復された
写真達のオンパレードですこし驚いた。
別に写真の修整を否定するわけではないが、
せっかくの「雑誌」がなんだか肌修正コンテストファイルのようで、
文字まで気が回らなくなってしまった。


ふと雑誌CREAの広末涼子さんのインタビューページで手が止まった。
自分が撮影した写真でないのはすこし悔しかったが、
今までの写真とは違う、なにか、、大人になった彼女を感じた。

1995年、Jリーグのオフィシャルの仕事を2年経た頃、
雑誌POPEYEで、仕事を頂けるようになった。
ちょうど、その頃に広末さんもクレアラシルのCMで人気が出始めていた。
撮影が終わると、セーラー服に着替えて、
「高知に飛行機で帰りま~~す」と慌てながらスタジオを後にしていたのが懐かしい。

葛西臨海公園のロケで天気が悪そうな気配がしたので、
青空の布バックを用意していったらドピーカンになり、
青空布バックをリアル青空背景ではしゃぎながら撮らせてもらったり、
ディレクターチェアーを海において、おんぶして彼女を運んで座ってもらったり、
まだ、あどけない表情をマルチなレイアウト用に、
若くて元気なおかげで、百面相ができるくらい死ぬほど撮らせてもらったり、
リリーフランキーさんの書いてくれたイラストのまえで飛び跳ねてもらったり、
スタジオに風船をたくさん浮かべて撮ったり、、、
なんだか、毎回毎回、、まるで遊びに行ったように楽しい仕事だった。

たしか、まだ彼女が中学生の頃だったと思うが、、、
あるスタジオでの撮影のときに、
当時のポパイの編集の小崎さんに
「一枚だけ、気分変えた写真にしましょうよ・・モノクロで泣いてるとか。。どすかね?」
と、提案すると「いいよ、、やってみて・・」
当日に用意していたのはカラーポジだけだったが、
いざとなればフィルムなんてなんでもいいやという気合で、
着替え用のチューブを身にまとっただけで肩を出して、立ち位置に入って頂いた。

「最後にワンカット、、気分の違う写真を撮りたいんです」
うまく説明する自身がなかったので、直球で照れながらこう言った。
「泣いてくれ」
彼女はちいさく「はい」と答えてくれた。
もちろんメイクとスタイリングでうすうす感じていたとは思う・・

全国区に登りつめた、中学生のタレントさんに肩をあらわにして「泣け」と・・
いささか、強引ではあったが、
あらかじめ、、、事前に説明してしまうと、実現できなくなることもある。

スタジオの音を消して、ストロボのモデリングだけにして珍しく三脚にカメラを載せた。
ファインダーを覗くと、、、、彼女は「ちょっと待ってください」と言いながら
立ち位置から3歩ほど離れた。
そして30秒ほど、小さな肩を落として集中してから、立ち位置に戻った。
静かにシャッターを切り始めると、彼女の表情は見たことのなかったものになり、
瞳の中ではモデリングの反射がきらきらと動いていた。
もう、それで十分だった。
イノセントな静かな振る舞いも、はじけるような笑顔もたくさん頂いたが、
星の数ほども撮られるであろう彼女のアイドル写真の中に
どうしても自分の痕跡を記しておきたかった。
被写体に撮らされる写真ではない、こちら側の写真も撮っておきたいという
わかりやすいカメラマンの勝手なエゴに快く応えてくれた広末さんには、感謝している。

この写真は、めでたく雑誌の見開きを飾った。
事務所の許可を頂いて、共同展の展示にも使わせて頂いた。
5年ほど後の映画「WASABI」の時の雑誌取材でも大伸ばしにして、
御本人の背景として使わせて頂いた。

この写真を撮ってしまったせいで、
他の方に「泣いてくれ」と頼んだことは、いまだにない。

Hasselblad 100mm オリジナル:カラーポジ